上卿(ショウケイ)…厳島神社における神主代理職

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上卿(ショウケイ)…厳島神社における神主代理職

まとめ
●儀式の最高責任者。
●よって厳島神社の実質的な最高責任者。
●戦国時代の途中から厳島神社の「最高権力者」は棚守房顕になり、上卿の権力は落ちていく。
●棚守屋敷は100部屋1000坪あった。上卿屋敷とは大きさが全く違う。その差は歴然。

上卿(ショウケイ)の本来

上卿(ショウケイ)は本来の意味は公卿(クギョウ…太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議などの朝廷のトップたち)の中でも一番の責任者を指した言葉。実質、左大臣のことか、左大臣が欠員の時は右大臣か内大臣が上卿になる。公卿が行う会議の議長的な立場のこと。つまり公卿の上という意味。
厳島神社の上卿の意味はそこじゃないです。

上記があり、行事を朝廷で行うときにその行事の責任者を「行事上卿(ギョウジショウケイ)」と呼ぶようになります。朝廷では行事にも公卿が関わりますが、行事上卿は公卿から選ばれるのはなくて、もっと地位の低い公家から選ばれます。厳島神社の上卿はそこから来た名前です。
神社の儀式のトップ
つまり上卿は厳島神社の「儀式」のトップです。上卿は最高の責任者です。厳島神社では鎌倉時代以降「藤原氏」が神主となっていましたが、当初藤原氏は広島におらず鎌倉に住んでいて神主不在でした。鎌倉時代の途中から藤原氏は広島(桜尾城)に住むようになりますが、戦国時代になると神主の友田興藤(藤原氏の子孫)が大内氏に謀反して殺されます。

藤原氏はそもそも武士で神主をするような人間はなかった上に、広島にいたりいなかったりする。ってことは、厳島神社の儀式(神事・仏事)は誰が取り仕切っていたかというと上卿になります。上卿は実質「神主代理」という意味になります。
●ただし宗教的な中心は内侍だったと思われます(室町時代までは)。

権力を失う上卿

上卿は儀式の責任者。ってことは神社の最高権力者です。なぜなら厳島神社のみならず全ての神社にとって「儀式とはアイデンティティ」だからです。儀式をしない神社なんてただの木造建築物です。ってことは上卿は単なる立場ではなく厳島神社とそこに関わる人たちの命運を握っているってことです。

棚守の台頭
上卿は権力者でした。この立場は江戸時代以降も変わらないのですが、厳島神社の最高権力者は、戦国時代の途中から棚守(現在の厳島神社神主である野坂氏の先祖)へと移っていきます。棚守というのは宝蔵の管理人のこと。つまり「しがない倉庫の管理人」が大昔から厳島神社の権力者である上卿を追い抜かして、厳島神社を支配し始めたのです。
毛利氏は厳島神社の権力者として棚守を認め、その証拠として建てたのが棚守屋敷。
参考棚守屋敷跡

棚守房顕がなぜ厳島神社の権力者になり得たのか?って話は色々とあるのですね。まず棚守房顕が大名や武将(大内義隆・陶隆房・毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・その他の毛利関係者)と結びついたことがあります。棚守房顕は大名武将の御師(宗教指導者)となり、神への祈願の仲介をしたのです(それで信頼を得た)。また時代の変化もありました。血筋を重んじる社会から、実力至上主義と変化する中で優秀だった棚守こそがふさわしいという感覚もあったのだと思います。

しかし、最大の理由は(あくまで個人的な意見ですが)、上卿がイマイチだったからじゃないかと思います。宮島の神主の藤原興親が京都で急死して友田興藤と小方加賀守が神主の座を争ってバチバチの緊張状態になり、合戦も起きます。すると当時の上卿は能美島へ逃げ出してしました。

神主が完全に不在の当時、文句なしの最高責任者の上卿が逃げ出すというのは船から真っ先に船長が逃げ出すようなものですよね。命あってのモノダネなんで、そうそう私から批判はできませんが、当時の厳島神社の関係者からの人望はすっかり失ったのだろうな、というのは想像に難くないでしょう。
●友田興藤と小方加賀守の争いの中で上卿の親類が殺されているので、逃げるのはある程度はしょうがない。

上卿屋敷と棚守屋敷

棚守屋敷の凄さ
上卿が儀式の責任者なのですね。林家住宅(上卿屋敷)が中を見れるので立ち寄ってみてください。その近くに「棚守屋敷跡」もあるので見て見てください。

棚守屋敷跡にはもう屋敷が残っていませんが、100部屋1000坪あったそうです。広さの格が違う。これが棚守と上卿の力の差だった訳です。
歴史の面白さ
厳島神社は実はとても奇妙な歴史を持っています。何と倉庫の管理者が権力者になったのですからね。釣りバカ日誌もびっくりです(違うか?)。

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