棚守房顕覚書92 元就下山

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棚守房顕覚書92 元就下山

天野紀州隆重(天野隆重)の元へ、江田新五郎の討ち取った首が到来しましたので、弥山を下向しました。頭を取り集めると8000ばかりもありました。それではと、地に首塚を作ろうとしたのですが、毛利元就の御思案があって、首塚は作られませんでした。

首塚を作らなかった

山の中に逃げ込んでいた江田新五郎なる人物を打ち取り、その頭が届けられたので、毛利軍は山を降りました。戦争が終わると、取った首をチェックする「首実検」と言うのが行われます。大将格・有力者の首を誰が取ったのか?によって褒賞が変わるので、大事な作業です。その首実検については覚書では書いていませんが、首実検が終わると首はもう不要ですので、埋めてしまいます。それが首塚なんですが、この首塚を毛利元就の「御思案」によって作らなかったのですね。

これは結構大事なポイントかもしれません。

宮島には墓がない
現在の宮島にはお墓がありません。宮島は神の島であり、穢れを嫌う。穢れを嫌うのだから、穢れの塊である死体を宮島に埋葬することはできない。よって墓がない。と言うことになっているのですが、これが「いつからそうなのか?」ってのがよく分からないのです。

毛利元就も陶隆房も厳島大明神の信者
そもそも毛利元就も陶隆房も棚守房顕を御師(宗教指導者)とする「厳島神社の信者」です。そんな彼らが決戦の場として厳島神社を選んでいるのですね。熱心な信者であれば厳島神社ではなく、別の場所で合戦すればいいでしょう。宮島が神の島で穢れを嫌うのならば。

宮島はいつから「穢れを嫌う神の島」か

ま、結局、宮島は少なくとも戦国時代までは「穢れを嫌う神の島」ではなかったってことです。そして棚守房顕が覚書の中で「首塚を作るべきとあったのですが毛利元就の御思案で作らなかった」と書いたと言うことは、首塚を作ること自体は、少なくともこの執筆時点では問題がなかったということです。厳島神社の神主たる棚守が「宮島に首塚なんてけしからん!」という書き方ではないのだから、そういうことでしょう。宮島はこの時点では「穢れを嫌う神の島」ではなかったのです。
●陶隆房(陶晴賢)の墓が廿日市の洞雲寺にある。宮島で首塚を作ってないのならば、宮島になく廿日市にあるのは何ら不思議ではない、ということになる。

では、宮島にこれ以前に墓があったのか。
そして、仮にあったとして、どうして今、ないのか?
そして、どうして毛利は首塚を作らせなかったのか??

その辺りは分かりません。
まだ勉強不足ですね。
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