棚守房顕覚書39 外宮宝殿の修理完工

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棚守房顕覚書39 外宮宝殿の修理完工

一、外宮宝殿のこと。荒廃していたので、友田興藤の下知(上から下へ指図すること)で、本願寺道本上人(=大願寺の僧侶)が再興しました。享禄3年(1530年)から思い立って、天文9年(1540年)子の年10月にことごとく造営しました。遷宮は11月28日。壁代として絹の衣10疋、布100端、舞楽の布施(フセ)100貫ありました。棟上げは11月26日でした。神社の棟の西と東に弓をはりました。東方の弓が折れました。桜尾の悪事の前兆です。

地御前神社(外宮)と厳島神社(内宮)

外宮は現在の「地御前神社」のこと。厳島神社は「内宮」で、二つの神社はセットです。伊勢神宮(内宮)と外宮と同じシステムです。さて、地御前神社が荒廃していたので、友田興藤に命じられて大願寺の僧侶が地御前神社を修復した。大願寺はずっと厳島神社を修理整備する寺で、「棚守房顕覚書7 西回廊の焼失」でも焼失した西回廊を修理したのは大願寺でした。

大願寺が修繕

その大願寺が地御前神社を修理した。友田興藤が思い立ったのが1530年で、完成したのが1540年だから10年がかりです。しかし、思い立った時はすでに「形式上」は厳島神社の神主は友田興藤ではなく、弟の友田広就のはずです。結局、実権を握っていたのは友田興藤であるということです。その神社の完成が1540年10月で、神様の引越し…「遷宮」が11月28日。

弓の儀式

そしてその時に神社の西と東で弓を張った。弓を張るのは魔除けの儀式です。弓に張った糸を鳴らして魔を払う。そういう儀式(だと思う)をしている最中に、東の弓が折れた。縁起が悪い。で、地御前の東にあるのが桜尾城。うーん、こじつけですね。ちなみに前回の「棚守房顕覚書38 弘中越中守社参」でも友田の凶兆は書かれていて、切り口を違う形で凶兆を示していて面白いです。

宮島と廿日市周辺の事情

ところで「棚守房顕覚書19 厳島神衣祭」では友田が厳島神社と速谷神社の神衣祭を行わなかったのに、なぜ地御前神社は修復したのか? 地御前神社は「西方」つまり、友田側だったってことなんでしょう。また、覚書では大聖院が西方になった件はあったのですが、大願寺に関しては書いていませんでした。大願寺も西方(友田)だったのでしょう。それで、大願寺を経由して地御前神社の修復をした。

1530年から1540年の間は宮島は「大内」の影響下にありました。でも、大願寺や大聖院の内心は「反大内・親友田」という考えだった。その中で棚守房顕が大内・毛利とパイプを持ち、神社を仕切っていた。棚守はかなり危うい立場だったはずです。
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