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西回廊(西廻廊)
建築折り曲がり延長62間(109m)幅4m、一重、東端切妻造り、西端唐破風造り、桧皮葺
創建時期平安末期12世紀の平清盛の時代。ただし、何度も壊れて建て直している。また、長さが変化している。現在現存するのは1558年~1615年に作られたもの。江戸時代までは絵馬が隙間なく飾られていて、拝観者が見ていました。
創建時期平安末期12世紀の平清盛の時代。ただし、何度も壊れて建て直している。また、長さが変化している。現在現存するのは1558年~1615年に作られたもの。江戸時代までは絵馬が隙間なく飾られていて、拝観者が見ていました。
ただし過去は西回廊が入り口で、西回廊の出口の近くに手水(神社に入る前に手を洗う水を貯めるところ)があるのも、その名残ではないかと。
長さの変異
仁安の修造の記録では東西の回廊は全部で113間とある。「間」は長さの単位で1.8m。これが一時は180間にもなるが、戦国時代に現在の東西合計108間に変更された。戦国時代に短くなったのは、天文10年(1541年)に土砂災害があり、境内(厳島神社がある海のこと)に土石流が流れ込み、陸が増えて、境内が狭くなったからです。現在はさらに「1間」短くなって東西合わせて107間です。
●108間にこだわりがあるのは「戦国時代」で在り、それ以前にはなかったよう。108は当然ながら煩悩の数で在り仏教由来の感覚です。
棚守房顕覚書によれば西回廊は天文6年(1537年)に火事で焼失しています。大国神社のところまで「焼けた」とあるので、相当な量が焼けています。で、この西回廊を大願寺が修繕しています。
大願寺は厳島神社を修繕する寺、というだけでなく他の寺社を修繕しています。どうもそういう技術者集団のようです。
大願寺は厳島神社を修繕する寺、というだけでなく他の寺社を修繕しています。どうもそういう技術者集団のようです。
床板は二重に
回廊の床板は二重になっています。本来の厳島神社の板の上にまったく同じ大きさの板を貼り付けて、保護しています。
現在の出口は入り口
西回廊の端が現在の「出口」となっていますが、かつてはこちらが入り口でした。出口の作りが「唐破風(カラハフ)」となっています。唐破風は装飾された作りで「入り口」に施されるものです。よって、こちらが本来の入り口です。
かつて(戦国時代以前)は現在の大願寺あたりの浜に船を留めて上陸して参拝するか、大元神社の目の前の大元浦に船を留めて上陸して、経ノ尾(=清盛塚のある山)を越えて参拝していました。
●江戸時代には現在の入り口(東回廊側)が入り口でした。
かつて(戦国時代以前)は現在の大願寺あたりの浜に船を留めて上陸して参拝するか、大元神社の目の前の大元浦に船を留めて上陸して、経ノ尾(=清盛塚のある山)を越えて参拝していました。
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