棚守房顕覚書128 毛利一党社参

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棚守房顕覚書128 毛利一党社参

毛利元就、毛利輝元、小早川隆景、毛利元秋、穂井田元清が社参しました。5日在島しました。御兄弟衆はいずれも棚守のところに宿泊しました。小早川殿は竹林内侍の宿に泊まりました。吉川殿は陸路を通り、直ちに帰陣しました。その砌(頃)、雲州(=出雲)の尼子勝久は色々の企みなどがあったのですが、果たされることはありませんでした。

毛利一家が宮島へ!

話の流れでは大内輝弘を打ち倒した後、毛利の一家が宮島にやってきた。大内輝弘の乱が永禄12年(1569年)です。吉川元春はそのまま帰って行ったようです。毛利元就と、子供たち3人は棚守の宿に、小早川隆景は竹林内侍(=内侍は宮島の巫女のこと)の宿に泊まった。この辺りは各人の性格が出てますよね。
となるとやはり棚守の家は「相当にでかい」のですよ。これだけの大物たちを一度に泊めるなんてね。単なる宿じゃない。旅館でもない。それなりの施設だったはずです。

ところで、その頃、尼子勝久が…とあるんですが、尼子勝久が死ぬのが天正6年7月3日(1578年8月6日)でかなりズレがあるんですよね。
この覚書は棚守が老年になって覚えていることをツラツラと書いているので単に「記憶違い」か、年寄り特有の10年くらいは「あっという間」という時間感覚のためかはなんとも。
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