棚守房顕覚書23 桜尾城の攻防

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棚守房顕覚書23 桜尾城の攻防

これを競として、大内義興と子息の大内義隆が出発しました。豊国・筑紫・周防・長門・安芸・石見の残すところなく、出兵し、桜尾城を取り囲みました。陶尾張守(陶興房)は対象として、岩戸山(廿日市佐方町)に陣を敷いて、吉見と其の外、杉、内藤の陣は天神山篠尾(=廿日市の天満宮・正覚院の山)に陣を取りました。
大内義興は、宮島の勝山の二重に屋形を建てて島に居ました。日々、桜尾に渡海して、勤めをご覧になって居ました。

大永4年(1524年)7月24日に桜尾の二重まで陶の軍が入り込み、合戦がありました。寄手(攻める側のこと)の勝屋甚兵衛、渡邊掃部助、青目喜三と友田興藤の宗徒の者が十人ばかりが討ち死にしました。桜尾城内の武功を挙げた人たちは、野坂藤三、絲賀中務丞、福田治部丞、三井右衛門尉で、その他のそれぞれが武功をあげた。そこで防州衆(=大内軍)は車櫓(クルマヤグラ)をこしらえて、北から下り掛けて寄せたのですが、城から笛太鼓ではやしました。城内は手ごわいので、吉見三河守頼興(=吉見頼興)は和談を調整しました。

大内義興・大内義隆が広島へ

大内義興と大内義隆の親子が山口からわざわざ、出張ってまで鎮圧にかかります。大内は中国・九州北部を統括する大大名ですから、彼の目の前でいいところを見せれば、恩賞が出るかもしれません。兵士はテンションが上がります。

合戦について

廿日市に住んでいる人は分かると思うのですが、桜尾城も、陶が陣を敷いた佐方町も、そして吉見・杉・内藤が陣を敷いた現在の天満宮も歩いていける範囲でかなり近い。戦争なんですがとってもローカルです。あと「城」と言っても、姫路城や大阪城のような天守閣のある「アレ」ではなく山城。山城というのはそこに掘っ建て小屋を建てたもので、友田はそこに立て籠もっているだけです。非常に地味な戦いなわけです。

和議へ

山城といっても、城は守に易く、攻めるのは難しいもの。それが城ってものです。大内軍は数では勝っていたはずですが、なかなか桜尾城は落ちません。車櫓(クルマヤグラ)ってのは、背の高い櫓を作って、一気に城に登るものです。それでもうまくいかず、和議を調整することになります。
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