神泉寺…廃寺となった二位の尼を祀る寺、別名時寺

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神泉寺とは

名前神泉寺(シンセンジ)…道成山無量寿院神泉寺
宗派浄土宗
創建不明…開基は祐光上人
設備本尊阿弥陀(座像・長さ三尺・定朝作)、脇仕不動(三尺・弘法大師作)、毘沙門(智證大師作)、中将姫像、二位法尼像(現在は宮島歴史民族資料館にある)、護摩堂
まとめ
●かつて宮島の光明院の裏にあった寺。現在は廃寺となり、「神泉寺跡」という石碑があるだけ。
●壇ノ浦の合戦の後、下関の壇ノ浦で入水して死亡した二位の尼(=平時子=平清盛の妻)の遺体が宮島にながれついて、その遺体を弔うための寺が神泉寺。
●平時子(=二位の尼)とその息子で平家の棟梁だった平宗盛は弥山水精寺(=現在の大聖院)を信仰し所領を寄進している。
●神泉寺では時を知らせる鐘を叩いていて、時寺という通称があった。平時子を祀っていることと関係があるかもしれない。
●宮島の偉人である誓真が番僧していた寺でもある。

光明院の裏

神泉寺(シンセンジ)は宮島の光明院の裏にありました。現在はなく石碑あるだけです。神泉寺は二位の尼(=平時子=平清盛の妻)を祀る寺でした。江戸時代には光明院が管理していたようですが、光明院が出来たのは天正11年(1583年)で、壇ノ浦の一件から400年後。神泉寺が出来たのはそれ以前ではないかと思われます。
棚守房顕覚書にも神泉寺についての記述がある。

ここで、神泉寺は「山口の寺の末寺」という記述があるので、神泉寺はそもそもは山口の寺。しかも田布施に土地(所領)があると記述がある。田布施は壇ノ浦からも遠い土地。神泉寺がどこの寺の末寺で田布施とどのような関係があるのかは何とも言えないが、個人的には二位の尼を祀る寺が徐々に移動して最後に宮島に辿り着いたのではないか?と思う。安徳天皇が下関の赤間神宮で祀られていることを考えると、二位の尼だけが宮島に祀られているのは、朝敵である平家が忌み嫌われたからではないかなと。その経緯が「壇ノ浦から二位の尼の遺体が宮島に流れ着いた」という伝承になったのではないかと。

時寺・時屋

神泉寺は昼夜を知らせる鐘を鳴らしており、「時寺・時屋」と呼ばれていました。平時子(=二位の尼)を祀ることにちなんだのか、それとも、そもそも時を知らせる鐘を叩いていたから、平時子を祀るようになったのかは分からないです。
宮島の歴史を学んだ人からはよく聞かれる話ですね。歴史の謎という感じで。
房顕記
戦国時代の棚守房顕棚守房顕覚書という本を残しているんですが、バージョン違いの複数の本が存在していて、その中に「房顕記」という本もあります(私は読んでない)。その房顕記には寿永(1182年から1184年・壇ノ浦の合戦は1185年)の時に…つまり壇ノ浦の合戦の時に二位の尼の遺体が有浦に流れてきて、それで阿弥陀堂を立て「阿弥陀寺」と呼んだと書いてあります。そして元々は天台宗だったとも。
宮島は元々は天台宗の島で、それが清盛の時代以降に徐々に真言宗に変わって行くんですね。決定的な証拠にはなりませんが、天台宗だったというのは、リアルな匂いがします。

誓真

誓真は宮島の偉人。江戸時代の人物で、宮島の杓子(しゃもじ)を産業として起こし、宮島の誓真釣井を作った人物で、誓真大徳頌徳碑という碑も作られています。
神泉寺はその誓真が勤めていた寺でもあります。
●誓真は光明院で修行して、神泉寺で活動した。

雑記

●仏教の寺で「神」という名前がついているのはおかしい。実際に昔から神…つまり二位の尼の魂を祀っていたのではないか。
●廃寺になったのは明治維新後。廃仏毀釈の流れの中で消えた。廃仏毀釈で宮島内にあった大量の寺が-消えているので不思議はないです。
●天皇の朝敵であった平家の女性を祀る寺だったので、特に否定された?という可能性はあるが、証拠はない。

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