棚守房顕覚書148 石田助十郎のこと

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棚守房顕覚書148 石田助十郎のこと

一、爰に石田助十郎と申すもの候ひし、親の六郎左衛門尉は、元就公の上意に相叶ひ、棚守に忠節のものなれば、社家に準ず、然る所に、彼の助十郎は社家になるまじき存分ども候や、天野元政へ奉公仕るべきの由を内々申し候や、端午の外宮の神事に、社家には同じからず、只ヒヤクヘナカ?常の体にて、出仕の時も、この如くに候、さ候間、佐東祇園の猿楽、17日の能は廿三日まで相延ばされ候間、廿日籠り渡り、そのまま病にて7月に死去仕り候。当社の儀は神慮恐しく候間、いらざる事に候へども、書き付け申し候。

現代語訳

石田助十郎と申すものがいまして、親の石田六郎左衛門尉は毛利元就の上意(=命令)に沿う人物で、棚守に忠節を誓っていたので、(石田六郎左衛門尉は)社家(=厳島神社の関係者)に準じていましたが、息子の石田助十郎自身は社家ではないという考えでありました。(石田助十郎は)天野元政(=毛利元就の子供で毛利の家臣)に奉公し仕えたいと内々に申して、端午(旧暦5月5日)の外宮(=地御前神社)の神事に、社家とは違い、私服で参加して(態度が悪く)、出勤してもそのようでした。

毛利の居城の佐東(安佐南区)の近くの祇園で猿楽があって、17日の能が23日に延期されまして、20日に病気でこもって、そのまま7月に死去しました。厳島神社の神慮は恐ろしいものです。不要なことではあるんですが書き付けました。

解説

棚守の都合
いかに厳島神社の神が恐ろしいものであるのか!というお話。神が怖いということは、その神と人間との間をとりもつ神官の力の見せ所であり、いかに神官が皆さんにとって大事なものであるのか?というセールスポイントになるのです。
石田助十郎の都合
父親の石田六郎左衛門尉は毛利にも気に入られて、棚守にも忠節を誓う人物で、社家ではないのですが、社家と同じように厳島の神に信仰していたようです。しかし、息子は違う。息子は嫌がって、地御前神社のイベントにも私服で行った。まぁ、武士がどうして神官の真似事をしないといけないんだよ!と考えたとしても不思議じゃないですよ。若いもんは分からないなぁ!ってのはいつの時代でもあるものです。でも、神様第一主義の棚守からすれば単なる不届き者にしか見えなかった。それで石田助十郎の行動とその死と厳島神社の神慮と結びつけて書き記した…こういうお話が厳島神社の神に箔が付くと考えていたんでしょうね。
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