棚守房顕覚書124 房顕風呂を焚かせる

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棚守房顕覚書124 房顕風呂を焚かせる

当社(=厳島神社)の元亀2年(1571年)12月の遷宮を執行した時に、供僧と社家と和談して、棚守房顕に(風呂を焚く)一役を任せて風呂を焚かせました。先年(=これまで)は六斎(毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日)に、当時は月に3度宛、申し付けていました。往古(=昔)の大湯の札に社家の座配がありました。自然、社家の座配の時はこの札を取り出し見るべきであり、棚守房顕に一役を任せて焚かせること、如何かと申すのですが、愚老である私の一生は、常栄(=毛利隆元)の御事とは、特別にご奉公と思いまして、このようにお足付(=報酬)もないのですが、(風呂のことを)調整しました。

厳島神社の修造と大湯屋

毛利元就が死んだ後、毛利輝元が厳島神社の修造を1571年に行った。その時に大風呂を復活させた。ところが、寺の僧侶と神社の社家が「どっちが先に風呂に入るか?の順番」で揉めた。そんなことで揉めるんかい!って思うんですが、どっちが上かってのは大事だったんでしょうね。

その揉め事を和談する中で、棚守房顕が間に入って風呂を運営することになった。昔は社家(=神社の神官などの関係者)が風呂に入る順番を決めていた…つまり座配を握っていた。だから社家が本来は、仕切るべきなんですが、揉めてしまうのではしょうがない。で、棚守が「愚老」と自分を卑下しながらも、無報酬ですが、毛利隆元(輝元の父)のためにご奉公しましょう!と、風呂の運営を調整した。

毛利隆元を高く評価

毛利隆元はすでに死んでいるんですが、どーも毛利隆元をかなり評価している。ここは素直に「現当主の毛利輝元のために」でいいだろうと。そうじゃなくて、毛利隆元なんですよね。毛利隆元は棚守房顕好みの「美少年」だったのかな?と。
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