棚守房顕覚書121 毛利氏宇喜多直家を攻める

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棚守房顕覚書121 毛利氏宇喜多直家を攻める

一つ、宇喜多直家には織田信長に二心(=謀反の心)があり、備前・美作に取り掛かり、度々合戦がありました。大寺畑(=美作の城)、小寺畑(真庭郡久世町の城)を切り崩し、敵味方に手負いがあり死人が数人ありました。?山のこと、切り落とすべくと定まりました。

天正7年、秀吉が5、6000人、上月城に下向しました。美作国へも明智光秀の衆(が来たと)聞きました。それで毛利は作州(=美作)の高田から帰陣し、備中の水田というところに陣取りました。

天正7年(1579年)4月13日。栗屋余十郎、児玉小次郎、神田宗四郎、この若輩週の我が手勢7、800人と三澤衆となんやかやで1500人で竹ノ庄というところに取り掛かりました。栗屋余十郎は討ち死にし、名を後代にあげました。児玉小次郎は三箇所に傷を負いました。あるところでは衆が4、5人討ち死にしました。神田宗四郎は二箇所に傷を負いました。あるところでは3、4人が討ち死にしました。そのほか、4、50人が討ち死にしました。

宇喜多直家と毛利と織田信長

宇喜多直家は中国地方では毛利元就と並ぶ「謀略の鬼」です。この宇喜多直家は元々は「浦上宗景」という人物に仕えていましたが、下克上によってボスになります。その時に浦上宗景と敵対関係にあった毛利の力を借りています。その流れで毛利に仕えていたこともあるんですが、のちには信長に恭順してしまいます。このページはこの頃のことです。

信長に寝返った宇喜多は当然ながら、今度は毛利に攻められます。その時に信長傘下の秀頼や明智の援軍がやって来たことが書かれています。

若者が死んだ!

そこで合戦があり、栗屋余十郎、児玉小次郎、神田宗四郎という若者が死んだり、深手を負った。どうも、やっぱり棚守房顕は少年愛があるように見えるですよね。この時代では珍しいことではないんでしょうが。
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