棚守房顕覚書82 備後の江田氏を討つ

MENU
TOP >> 棚守房顕覚書(資料) >> 棚守房顕覚書82 備後の江田氏を討つ棚守房顕覚書(資料) 資料
スポンサードリンク

棚守房顕覚書82 備後の江田氏を討つ

陶一味の衆は、談じ、このような備後の江田玄蕃助(=江田隆貫)は当家に対して無沙汰(=尼子に帰属したこと)だったので、退治するべきだとして、防州から江良丹後守(=江良房栄)人躰として出張しました。毛利元就自身が出陣しました。翌日、旗返(=旗返城=広島県三次市三若町)の要害を切り取ると、防州からこの城を吉田へ渡されるべきだから、そうあるべきだと陶衆は当座を相守れども、のちには毛利殿の知行です。

江田の無沙汰

陶は備後の江田隆貫を「無沙汰」だったことを理由にして退治することにした。この無沙汰は「尼子に帰属したこと」と棚守房顕覚書の注釈にあります。江田は尼子に属していましたからね。

その江田を成敗するのが江良房栄。江良房栄は毛利元就も一目おく武将で、陶隆房の重臣。彼が防州(山口)から出張ってやってきた。毛利と江良は共同で旗返城を落とした。その時、毛利元就が「旗返城は毛利に引き渡せよ」と主張したが、結局、陶側が城を守った。
後々には毛利元就のものとなったのですが、この時点では毛利は手に入れられなかった。

しかし、どういう理屈で毛利元就の「もの」なのかはよく分からない。もしかすると陶の謀反(大寧寺の変)の際に「安芸国は毛利もの」…正確には「安芸国より向こう側は毛利のもの」みたいな話し合いというか取引があっての謀反の協力だったのかなと。それで毛利としては、旗返城は毛利のものだという感覚だった。のかも。

旗返城

江良は毛利に旗返城を渡すのは怖いと考えたんではないかな。すでに毛利が謀略の鬼だというのは分かっていたでしょうし、山陰には尼子。九州には大友がいて、大友は陶が大友から「大友晴英(=大内義長)」を迎えた時に、九州から手を引くことを約束した。この上、安芸国に毛利がドデンと居座ったら、もはや陶隆房・大内義長は身動きができない。陶・大内が進出する先は安芸しかない。陶隆房VS毛利元就=厳島合戦…は避けられないものだったのでしょうね。
前のページ…「棚守房顕覚書81 義隆以下自刃
次のページ…「棚守房顕覚書83 陶晴賢と毛利元就・大内氏の後継者

棚守房顕覚書(資料)の一覧

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集