棚守房顕覚書74 天神堂建立

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棚守房顕覚書74 天神堂建立

天神堂を建てられ、会所(連歌の興行を開くこと)を仰せつけられました。月次の連歌興行を行えと。その上で、6月17日の夜の管弦祭の稽古、6月2日から17日の夜に至る大小の7度の寄合(=関係者の集会)などがありまして、6月2日の当番に社家は申すに及ばず、地元の奉公衆、その他の町人に至るまで、2、300人を呼び、酒や飯を調整して1日遊覧しまして、この酒は吉田(=吉田郡山=毛利)から当島の各々への贈り物であると申しました。6月9日は管弦の稽古がありました。6月14日には供僧と社家の寄合がありましてた。6月16日は船組(=船を三つ組んで管弦祭の船とする)をしました。6月17日夜の管弦祭が過ぎると、大元の沖で酒や飯を食べました。これらのことは社家各々の協力があってのことです。

内容が飛んでいます

天神堂は現在の厳島神社摂社の天神社のこと。
天神社が作られたのは弘治2年(1554年)。大内義隆が死亡する大寧寺の変が1551年ですから、このページの話はかなり飛んでいることになります。棚守房顕覚書は思い付きでツラツラと書いているために、飛んでいることが多いのです。気にしないようにしましょう。

天神堂

毛利隆元(元就の子供)が天神堂という建物を建て、それで毎月「連歌興行」をすることになった。天神堂というのは天神を祀るための神社ではなく、連歌というイベントが天神と絡めて興行することが多いので、つけられた名前ではないかと思います。毎月ってのが大変ですよね。よほどの人数の文化人がいないとキツイですよ。
●ちなみに100句の連歌を行う時に九人で行うのが一番いいとされています。1000句を作るのにのべで90人。万句連歌では900人が大体必要。また、彼らの食事や移動の手配などを考えると、相当な人数が関わった。さらに連歌に参加する人物はかなりの知識人でないといけないので、相当なビックイベントだった。

管弦祭

そういうイベントをやりつつ、管弦祭にも取り組んだ。管弦祭は6月17日の夜にありますから、準備のために6月2日から6月17日にかけて集会した。2日の集会では二、三百人が集まって飲んで食ったとあるので、かなり大きな集会ですよね。どこでやったのやら。その時に飲んだ酒を送ってくれたのが毛利。
棚守はよほど毛利を絶賛したいようです。
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