棚守房顕覚書58 義隆の戦後処理、房顕の斡旋

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棚守房顕覚書58 義隆の戦後処理、房顕の斡旋

厳島神社の本願道本上人、小方加賀守、新里市頭が申し上げて、糺明(=明らかにすること)あるべきだとするところ、棚守房顕は黒河殿(=黒河隆尚)にこの大願寺が申している理というのは、船に押し込めて、船から降りて大願寺へ帰った修理行事親家のことです。修理行事親家は尼子の師檀であるから、成敗すべきであるとおっしゃられているのを、棚守は(助けるように)懇望し申し、他宿した。
天文10年(1541年)1月18日。他宿して、明けて2月に、内藤左京は進んで申しまして、社家も申しまして、弘中越中守と両人の御奉書で、棚守に社家奉行の命があり、帰島するように仰せ渡されました。修理行事は小早川殿から土屋紀伊守と棚守のところへ来ました。

解説

最初、友田興藤と小方加賀守が厳島神社の神主を巡って争った。その時、宮島の人たちも友田と小方に分かれていました。ちなみに新里市頭は小方派です。その後、友田興藤と友田広就が厳島神社の神主を自称して大内に謀反した。その時、宮島の人たちも友田に同調していた人たちがいました。友田は2度謀反しています。最初は安芸武田氏の援助を受けて。その謀反は友田興藤の神主失職で手打ちになりましたが、兄弟の友田広就が神主になると、次は尼子の支援を受けて2度目の謀反を起こした。その結果、友田は全滅した。

修理行事親家

尼子の御師となったのが「修理行事親家」。「大願寺に帰った」とあるので神官ではなくて大願寺の関係者じゃないかと思うのですが。尼子の御師である彼を「殺すべき」だと、大願寺の「道本」と、小方加賀守と、新里市頭などが言った。しかし、棚守は助命を申し出た。本願道本は「棚守房顕覚書39 外宮宝殿の修理完工」の中で友田興藤の命令を受けて外宮(地御前神社)を修繕しているのですね。
他宿というのは旅行先で泊まることだと思われます。

このページの話は「飛んで」います。時系列で言えば「棚守房顕覚書44 厳島鳥居沖の戦」「棚守房顕覚書45 房顕、義隆に対面」の間にあるべき記述です。そう考えると、前に描いたことの補足なんですね。
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