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社家奉行…厳島神社を動かした三家の一つ
社家奉行の本来の意味
社家とは神社に関する「家」のこと。奉行とは上からの命令を「奉り」「行う」ことを指します。社家奉行は「神社の関係者のトップ」ってことです。よく聞く寺社奉行というのは、寺奉行と社家奉行の両方の役職を合わせたもの。本来の奉行には「裁判を開いて裁定をする」という意味はないが、実質、司法権を握ることで管理していたので、そーゆーこと。
ここでいう社家には神官だけでなく雅楽関係者も含まれます。
ここでいう社家には神官だけでなく雅楽関係者も含まれます。
厳島神社での社家奉行
戦国時代に友田興藤が厳島神社神主になると安芸武田氏・尼子氏と結んで大内に謀反を起こし敵対します。この謀反は結局、友田の死によって収束するのですが、問題は事後処理でした。
実は戦国時代の厳島神社の「政所・公文所」といった財政を取り扱う部署は武士化して、神主の直接の部下となっていました。その武士と厳島神社の社領(神社だから神領とも)の人たち(=神領衆)が友田興藤を中心にして独立を図ったわけです。単に友田興藤が死んで問題は解決しません。血の気の多いのが残っているのですからね。
そこで大内は大内の部下の杉隆真を、友田興藤と神主の座を争った小方加賀守の娘と結婚させて「佐伯景教」と名乗らせました。佐伯というのは平安時代まで神主だった家系です。神主佐伯氏の復活です(厳島神社を創建したのは佐伯鞍職なる人物)。
実は戦国時代の厳島神社の「政所・公文所」といった財政を取り扱う部署は武士化して、神主の直接の部下となっていました。その武士と厳島神社の社領(神社だから神領とも)の人たち(=神領衆)が友田興藤を中心にして独立を図ったわけです。単に友田興藤が死んで問題は解決しません。血の気の多いのが残っているのですからね。
●友田は担がれたという認識があったのだと思われる。友田一人が全責任を負う首謀者ならば、友田が死ねば問題はなくなるはずなので。
そこで大内は大内の部下の杉隆真を、友田興藤と神主の座を争った小方加賀守の娘と結婚させて「佐伯景教」と名乗らせました。佐伯というのは平安時代まで神主だった家系です。神主佐伯氏の復活です(厳島神社を創建したのは佐伯鞍職なる人物)。
●ちなみに厳島神社の関係者はみんな佐伯です。
●友田氏、小方氏は藤原氏。鎌倉時代以降、幕府が任命した藤原氏が厳島神社の神主となった。
●佐伯景教は厳島合戦後に毛利に殺される(陶・大内側の人間だったため)。これ以後、明治に野坂氏が厳島神社宮司(神主)になるまで、厳島神社に神主は不在となる。
●友田氏、小方氏は藤原氏。鎌倉時代以降、幕府が任命した藤原氏が厳島神社の神主となった。
●佐伯景教は厳島合戦後に毛利に殺される(陶・大内側の人間だったため)。これ以後、明治に野坂氏が厳島神社宮司(神主)になるまで、厳島神社に神主は不在となる。
参考棚守房顕覚書59 義隆三入に移る
で、政所・公文所という財務を預かるところの権力を無力化するために、金の管理を棚守房顕という本来は下っ端の人物に任せたわけです。そりゃそうでしょうよ。これ以降、棚守房顕が厳島神社の関係者の「給料」の分配の権利を握り、厳島神社を支配して行きます。
それが社家奉行という役職です。
その後は三家(大聖院座主・社家奉行・大願寺)の三家が厳島神社を動かして行きます。この体制は棚守房顕が存命の時に確立し、棚守の子供の棚守元行に引き継がれ、明治維新まで続きます。明治維新後は棚守の子孫の「野坂氏」が宮司(=神主)をしています。
●友田興藤の謀反までに大内と棚守は信頼関係を結んでいた。
それが社家奉行という役職です。
その後は三家(大聖院座主・社家奉行・大願寺)の三家が厳島神社を動かして行きます。この体制は棚守房顕が存命の時に確立し、棚守の子供の棚守元行に引き継がれ、明治維新まで続きます。明治維新後は棚守の子孫の「野坂氏」が宮司(=神主)をしています。
●棚守の権力・地位をはっきりさせるために建てたものが「棚守屋敷跡」。巨大な屋敷で他の社家とは比べ物にならない広さ。毛利氏が建てた。毛利は棚守の後見人。
●本来の厳島神社のトップであってもおかしくない上卿の屋敷が現在でも見られる。林家住宅(上卿屋敷)と比べるとその大きさは歴然とした差。
●本来の厳島神社のトップであってもおかしくない上卿の屋敷が現在でも見られる。林家住宅(上卿屋敷)と比べるとその大きさは歴然とした差。
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