棚守房顕覚書56 金山城陥落、新羅三郎の鎧

MENU
TOP >> 棚守房顕覚書(資料) >> 棚守房顕覚書56 金山城陥落、新羅三…棚守房顕覚書(資料) 資料
スポンサードリンク

金山城陥落、新羅三郎の鎧

佐東金山(=佐東銀山城=武田信実の居城)と和談しまして、内藤、斎藤などを櫓(土櫓)まで追い、天文10年(1541年)5月12日。討ち果たしました。

新羅三郎の鎧は武田家の什物(=代々の家宝)であるといえども、陶尾州(=陶尾張守=陶隆房)から屋形(=大内義隆)へと進上されました。5月18日、棚守房顕を呼び寄せて、当社(=厳島神社)へ寄進されました。小松殿(=平重盛)の鎧と同様に宝蔵にあります。

佐東銀山城の陥落

すでに取り囲まれていた佐東銀山城が落ちました。佐東銀山城の城主である武田信実はこの時点ではすでに吉田郡山城での戦いで広島から撤退し、出雲に逃げていて、城にはいません。佐東銀山城は城主が逃げ出した状態で僅かな兵で奮戦していたわけです。これにて安芸武田氏は実質、全滅。

安国寺恵瓊
ところが、この安芸武田氏の忘れ形見の子供が安国寺に預けられ、後々に僧侶として歴史の表舞台に現れます。それが「安国寺恵瓊」です。僧侶というか外交官ですね。なんと毛利元就に仕え、その後は豊臣秀吉にも仕え、宮島に経堂を立てます。それが現在の「千畳敷」です。

新羅三郎

新羅三郎とは左衛門尉刑部少輔義光(=源義光…1045-1127)のこと。源頼義の子。源義家の弟。源義光が武田氏の祖先です。武田氏の一部が安芸に流れてきたのが「安芸武田氏」。つまり由緒正しい家柄ってことです。安芸武田氏はこの鎧を持って血筋の証拠としていたのです。別に伝説の鎧で魔法の力が宿っているわけではありません。
前のページ…「棚守房顕覚書55 義隆ら外宮社参
次のページ…「棚守房顕覚書57 義隆金山城に移る、房顕ら対面する

棚守房顕覚書(資料)の一覧

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集