棚守房顕覚書47 房顕、社家奉行となる

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棚守房顕覚書47 房顕、社家奉行となる

天文10年(1541年)2月23日に参上し、社家奉行、神事田(=神事の費用を捻出する田)、同社家三方の相物(?)・知行の反銭を、房顕の分と愁訴しました。どれも、棚守房顕に御判されました。社家末代(=死後)の儀のことで、その他に色々な儀がありましたが、書記することができません。御神物は御太刀2つ、御神馬2匹、月々参上しました。

解説

前回で大内義隆の「御師」となった棚守房顕は、ついでに知行(領地)まで貰いました。そしてついには、大内義隆に「社家奉行」という厳島神社に関わる家々の「裁判」を司る役職と、厳島神社の神事田、社家の給料を「棚守房顕が管理するべきだ!」と愁訴…つまり大内にお願いして、それが全て認められた。また、社家の死後の扱いについても、話し合いがあったようですが、書記されていません。社家の末代の儀というのは、つまり、厳島神社の今後の運営のあり方についてです。

それぞれの事情

友田興藤・友田広就が本来は厳島神社の神主であるはずなんですね。だから、本来は彼らが大内と交渉するべきなんです。しかし友田は尼子と組んで、大内と縁を切り、謀反を起こした。それだけでなく厳島神社の神事に興味を持っていない。これまでの経緯を考えると大内としても、下手に野望を持った神主が出て来ては困る。棚守房顕も妙な野望を持った神主が出て、厳島神社の神事が滞るようでは嫌だ。そこで大内と棚守房顕は手を組んだ。大内は費用を出す。棚守房顕は神主にならないままで、大内から援助を受け、神社の関係者の給料の分配権を得て、厳島神社の実権を握る。
ここに棚守房顕の権力の土台がほぼ完成したわけです。
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