棚守房顕覚書35 房顕、毛利氏の御師となり巻数を上る

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棚守房顕覚書35 房顕、毛利氏の御師となり巻数を上る

房顕、毛利氏の御師となり巻数を上る
吉田(毛利のこと)の御師職を棚守房顕に仰せ付けられて、陶隆房の使者として深野文祝を持って調整しました。

元就、棚守の使者と対面する
天文9年(1540年)9月28日。熊野民部丞、石田六郎左衛門尉を棚守房顕の使者として吉田(=毛利)に初めて巻数(=僧が読誦した経文など)を上進しました。すぐに毛利元就は棚守の使者の両人に対面しました。
天文9年(1540年)9月28日。尼子衆は青三井(=青光井山)から豊島小原へ勤めに発行(=出発)しました。尼子衆の井原弥次郎、そのほかの宗徒の人たち数十人を討ち取りましたが、その頭たちを棚守の使者が元就と対面の座敷に持って行きました。これは厳島大明神のおかげであることと、喜び満足喜悦でした。

解説

すでに陶興房の御師となっていた棚守房顕が、毛利元就の御師となった、ということです。陶興房はこの前年に亡くなっており、息子の陶隆房が跡を継いでおります。その陶隆房が、棚守房顕を毛利元就の御師になる手引きというか調整をしたわけです。

毛利と大内

毛利といえば、そもそも大内の部下だったのですが、尼子に寝返り、大内傘下の鏡山城攻略で調略を用いて攻め落としました。この時、尼子の戦後処理のため、尼子と毛利の間に溝が出来ました。詳細は「棚守房顕覚書13 尼子経久鏡山攻略」を参考にしてください。

毛利元就はその後は尼子と敵対関係になり、大永5年(1525年)には尼子との関係を絶って大内の傘下に入ります。毛利は徐々に隣接する氏族を滅ぼしたり、逆に取り込んだりしながら勢力を拡大し、天文6年(1537年)には、長男の毛利隆元を大内に人質として差し出しして関係を強化しています。ちなみに毛利隆元も陶隆房と同じように大内義隆と同性愛関係にあったのではないかと言われています。

天文8年(1539年)になると大内は九州の少弐氏を討ち、大友とは和解したので中国地方の攻略に取り掛かります。佐東銀山城を攻略。友田興藤を援助していた安芸武田氏を追い出します。天文9年(1540年)に尼子が毛利元就の吉田郡山城を攻めます。最初は毛利は単独でどうにか戦っていましたが、大内の援軍が到着。それが「棚守房顕覚書34 大内義隆父子の出陣」の原文にある「日々の合戦なり」の記述です。

そういう経緯があって、棚守房顕が毛利元就の御師になったわけです。

厳島は戦の神

平安時代に後白河天皇が梁塵秘抄(今様)で「関より西なる軍神、一品中山安芸なる厳島 備中なる吉備津宮 播磨の広峰惣三所 淡路の岩屋には住吉西宮」と歌っていて、厳島神社が「戦の神である」として、しかもかなり有名…つまり強力な戦の神であるとしています。

つまり、厳島神社は少なくとも平安時代には、おそらくはそれ以前から、戦神としての性質を持っていて、有名だった。だから棚守房顕の使者が「敵の首」を持ってきたら毛利は「満足喜悦」だったわけです。
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