棚守房顕覚書20 房顕陶尾張守と対面

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棚守房顕覚書20 房顕陶尾張守と対面

陶尾張守(=陶興房)から弘中越後守(=弘中武長)へ使者が送られました。宮島に居る間に社家衆(=厳島神社の関係者)に再々、参会するようにと。その他の本?の社家一人を見つけて、門山(大野町の地名)に(宮島から)渡されました。
弘中越後守(=弘中武長)は宮島に討ち入ったとき、別に馳走したので「棚守左近大夫と申す社家を派遣する」として、大永3年(1523年)未の年の12月28日に弘中武長の(領地の)一箇所の、吉井蔵人と沓尾ノ四郎の両人が列して門山(廿日市大野町)の西に渡りまして、対面し、お酒があって宴会がありました。サウ者(=付き添う?)は山崎左馬助でした。深野名字の文祝と肥留惣右衛門の両方の使者を、神前両社へ堤燈(=チョウチン)を持って参らせ、その時、寄進した太刀と、御供え料を受け取り、帰島しました。
その後、大永4年(1524年)申の年1月8日、門山に参りました。それから師檀となりました。
大永3年(1523年)未の年の10月から大永4年(1524年)申の年5月12日まで色々なことがありました。

解説

ちょっと現代語訳してよく分かりませんので、いずれは直そうと思います。
西方の友田興藤が桜尾城で神主を名乗り、大内に反抗したら、大内は陶興房を派遣して鎮圧しようとします。大永3年(1523年)8月18日、宮島にも大内軍がやってきたので宮島の西方(友田側)の人間は島外に逃げました。
それで宮島は大内側の影響下に。
そこで棚守房顕が呼び出され、もてなされて、太刀を寄進され、御供料をもらった。そして大永4年(1524年)1月8日に師匠と檀家になりました。つまり、棚守房顕が陶興房の宗教指導者となったわけです。「御師」とも言います。御師とは神への願いの取次をする宗教指導者です。これ以降、棚守が権力者(大内)との交渉の窓口になっていきます。これが後に棚守房顕が神社内で権力を握る最初のステップになります。

なぜ棚守か

しかし、どうして棚守だったのでしょうか。
棚守ってのは、宝蔵を管理する役職のこと。現代で言えば倉庫管理人くらいの役職で、厳島神社ではペーペーのはずです。彼がここで厳島神社の代表として出向いて、御師となったのは本来、ありえないことです。

島は東と西に別れ大混乱し、東に染まったり西に染まったり。その中で責任者たる上卿は能美島は逃げた。島内の人はどっちが勝つかなんて、本来はどうでもいいことです。勝つ方について、何事もなく無事に過ごしたい。大内の陶と弘中が廿日市にやってきて、「交渉する社家を出せ」とせっついた。社家側は誰も交渉役になりたくない。もしも友田が盛り返したら、今度は友田に殺されるかもしれないですからね。それでペーペーの棚守まで役が回ってきた、ってところでしょう。
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