棚守房顕覚書4 平清盛厳島神社を造営する

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平清盛厳島神社を造営する

1、ある時、平清盛入道殿は、高野山に詣でました。すると弘法大師空海が清盛に直々に言いました。
「越前の気比神宮は栄えているのだが、厳島は栄えていない。厳島神社を造営しなさい」
そこで弟の平頼盛(タイラノヨリモリ)を奉行として神社を建て替え、鳥居鳥居を建て替え、女院(高倉天皇の皇后の平徳子)が伊興国新庄(伊予国の新庄…伊予は現在の愛媛県)から米三千石を送りまして、弥山の鐘は平宗盛(=清盛の子)が寄進しました。治承2年(1178年)の春の頃と、鐘の文にあります。

造営の年

文章を読む限りは「厳島神社の造営は1178年である」ってことになります。芸藩通史によれば仁平2年(1152年)とも書いてある。また秘寶厳島によれば仁安(1166年から1168年)年間の修造とある。実は現在(2017年)でも厳島神社が修造した年代は全くはっきりしていないです。ちなみに仁平2年(1152年)は清盛が厳島信仰を始めた直後で修造する財力があったとは思えないので、仮に仁平2年(1152年)だとするならば、清盛とは無関係に修造したことになる。多分。

厳島神社の造営の縁起

平家物語によると、清盛がまだ安芸守(久安2年(1146)、29歳以降)だったときに、高野山の大塔を修理したことがありました。修理は6年かかりまして、やっと終わった時に大塔を拝んで奥の院に行くと、白髪の老僧(=これが弘法大師空海)が「越前の気比の宮と安芸の厳島は、両界の垂迹ではあるが、気比は栄えているのに、厳島は荒れ果てている。修理をしなさい。そうすれば肩を並べるものがいないほどに出世する」と言われて厳島神社を修繕したとある。どうやら棚守房顕覚書の記述はこれに習ったものだろうと思われます。

にある「ただし悪行がある場合は、子孫までは守り難い」という言葉も弘法大師空海の言葉の中にみられます。

弥山の鐘

平宗盛が寄進したものとなっているのですが、実際は平安時代か奈良時代のかなり古いものではないかとも言われています。
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