棚守房顕覚書79 金山城と毛利氏

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棚守房顕覚書79 金山城と毛利氏

一、佐東金山(=佐東銀山城)のことです。城番である麻生興太郎、福島、その他の防州の給人(=領地を持たず年給をもらう人)衆の5、60人がいたのですが、吉田(=毛利)から出張がありまして、福島などは心寄せ(=毛利に贔屓にしていること)していたので、やすやすと金山(=佐東銀山城)を受け取りました。そのほか、伴(=広島市安佐南区伴)、大場(=広島市安佐南区大塚?)は吉田(=毛利)の存知です。

毛利は簡単に佐東銀山城を得る

このページは天文20年(1551年)の8月20日以降のお話。
陶隆房の謀反に呼応して毛利が佐東銀山城を奪取。棚守の書き方によれば、「やすやすと明け渡した」というわけですから、安芸国の人たちの頭の中に大内への批判があったのか、はたまた毛利に対する期待があったのか、両方なのか、そこのところはなんとも言えませんが、まぁ、ともかく毛利がすんなりと佐東銀山城とその周辺地域を勢力下に置いた。

となるとやはり、毛利と陶は結びついていたということになります。棚守がいかに陶と毛利の御師だとしても、まさかそこまで把握していたとは思いませんから、世間の認識として毛利と陶は呼応して謀反した!と考えていたのでしょう

厳島合戦へ

ところが、この後、陶隆房は毛利と厳島合戦で戦うことになり、結果、毛利が勝利し、安芸国の権力者になるのですが、まー、毛利はえげつないな。調べるとどうにも尊敬できないんですよね。
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