棚守房顕覚書60 神領のこと

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棚守房顕覚書60 神領のこと

所領について。厳島神社の神主は以前は、16000貫分限でした。その上、播磨神邊庄700貫、引聲料(=経文を読む代金)、そのほかの神事料、美作にもあり、伊予国の新ノ庄にもあります。先年の中頃のこと、足利尊氏将軍が筑紫に下向して、筑前多々羅浜の合戦(=多々良浜の戦い1336年)で大利を得て、帰洛(=京都に帰ること)の時に、当島に社参されて、三夜三日の間、神社に籠りました。その時、造果(賀茂郡造賀村=現在は東広島市)700貫、己斐、草津の三箇所を寄進しました。

昔の厳島神社の領…寺原(=山県郡北広島町寺原)、北方(高田郡川本村?)、南方(山県郡南方村)、高田原(高田郡高田原村)、西條(賀茂郡西條)、黒瀬、天ノ庄(安麻庄・倉橋島・江田島・蒲刈島)、佐東、麦田(?=麦谷?=広島市佐伯区湯来町大字麦谷)、中小師(=中調子=広島県沼田郡中調子村)、緑井、官幣の御前、三田(=高田郡三田)、井原(=高田郡井原)、長田(=高田郡長田村)、その他、ところどころに神領があるといえども、弘袖(?)故に、最寄りの国衆に切り取られ、神領6、7000貫のうち、平良50貫、その他に250貫ばかりの知行となりました。惣公文や政所の小給人(=給料をもらう人)への相副えするもの、合わせて800貫ほどの分限がありました。

解説

棚守が言うには、厳島神社の神主はかなりの「権利」というか「取り分」があった。取り分といっても、そこから神社の人のお給料を支払うんですがね。それでも16000貫はすごい。1貫は江戸時代で25000円くらいなのでそれで換算すると4億円です。うーん。
それとは別に神邊庄から700貫。美作や伊予国にも領地があった。足利尊氏から領地をもらっている。
●太平記にも藤原親顕(5代)が神主の時代に足利尊氏が厳島神社に三日参詣したことが書いてある。

奪われていった領地
かなり広範囲に神領があったのだけども、近隣の住民に切り取られてしまった。棚守が言うには「弘袖」だから。弘袖ってのは、おそらく長袖のことで、医者とか公家とか僧侶とか、戦争しない階級の人たちをザックリとまとめた言葉。そうして、神領を失って、自由にできるお金がなくなった。それでも神領衆と共に友田が謀反をするくらいですから、十分に大きな領地があったのでしょうが。
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