棚守房顕覚書45 房顕、義隆に対面

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棚守房顕覚書45 房顕、義隆に対面

大内殿から棚守房顕のところへ、弘中越中守(=弘中正長)の一所の石津藤四郎が警固しながら、隆尚(=黒河隆尚)の船に乗せて下りました。
天文10年(1541年)1月17日。石津と同行して、岩国(=大内義隆が居る)に参上申し上げたところ、1月18日に対面しました。この度の、宮島の中の棚守のことを心もとなく思われていたのだが、無事に参上したことはご喜悦(=喜ばしい)ことだと思われたようで、陶(=陶隆房)との上意(=大内義隆の意見)で、烏帽子、鎌倉の御腰の物、琴の緒巻、金龍目貫(=金の龍のデザインの目貫…目貫はサヤを柄に固定する器具)の笄(コウガイ=髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具)、御太刀…金覆輪金具(=周囲を金で装飾した金具)で皆金の銘は助宗(=刀鍛冶の名前、備前福岡一文字派)をくださりました。神前へ御太刀2つ、これも銘のもの。神馬二匹、御酒ばかりで、上るように命じられた(=宮島に帰った)。宮島のことは房顕の存知のままです。
天文10年(1541年)2月1日。(厳島神社の)お供えに参られました。代官(=大内義隆の代わり)として弘中正長が参詣しました。

解説

友田の勢力を宮島から駆逐した大内。その大内から宮島へ使者の石津藤四郎がやって来ました。使者は宮島を占拠した黒河隆尚を迎えに来たのですが、1月17日に棚守房顕はその迎えの使者と一緒に、岩国の大内義隆の元へと参上し18日には対面した。様々な贈り物を受けました。そして、宮島のことは「房顕の存知のまま」となった。
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