棚守房顕覚書21 神領衆と防州衆との合戦

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棚守房顕覚書21 神領衆と防州衆との合戦

大永3年(1523年)未の年、石道(広島市佐伯区石内)の小幡興行は防州家(大内のこと)でしたので、佐東衆(広島市安芸南区沼田のあたり)が神領から来て、領地を切り取り、武略を持って和談しましたが、三宅(広島市佐伯区三宅)の円明寺で落城しました。この寺の家で親類八人が腹を切りました。これが11月1日でした。

防州(=山口県=大内)の警固船は宮島から五日市へ向かいました。船の乗り場で吉浦の野間刑部大輔、能美弾正忠、弘中越後守の部下の一人の野村民部丞とその他の宗徒の衆(=人たち)二十人ほどが討ち死にし、引き帰しました。

解説

棚守房顕覚書16 小方・友田の神主職愁訴と義興の神領経営」に見えるように小幡興行は大内の関係者。大内の関係者だったことから、「友田興藤VS大内義興」の中で、友田興藤側の人間に攻め落とされて、円明寺で親戚八人と一緒に切腹。これが11月1日。

次に大内側の兵士が宮島から五日市へ行くのですが、返り討ちにあい、多くの人が死んでしまいます。大内側も決して絶対ではないのです。友田側も軽い気持ちで大内に逆らったのではない。
刑部大輔、弾正忠、越後守、民部丞は役職名です。
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