棚守房顕覚書6 鎌倉幕府の神主任命

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棚守房顕覚書6 鎌倉幕府の神主任命

一、源氏の世となりまして、先任の神主の佐伯景広(佐伯景弘)が断絶して、鎌倉から神主職を信任させました。斎院の次官の親能の次男の藤原親実に神主職を与え、着任させました。それ以後、宮島の色々の儀式は書き記すことがありませんでした。

佐伯景広(佐伯景弘)

芸藩通史によると佐伯景弘は高田郡(現在の安芸高田市など…かなり内陸)の郡司でもあった。それが厳島神社の神主で、祭祀造営で辣腕を振るったよう。平家と繋がりが深かったのですが、だからと言って鎌倉方に殺されることもありませんでした。それどころか、失われた宝剣…三種の神器の草薙剣の探索に駆り出されました。
別の資料によると
鎌倉時代13世紀末に成立した公家の日記をまとめた「百錬抄」によると、佐伯景弘は「安芸国守」ともある。鎌倉幕府が編纂した東鑑(吾妻鏡)によると「安芸介」となっている。これが事実かどうかはともかく、佐伯景弘…というか厳島神社の神主とは、安芸国の守護のような性質も持っていた…当時はそういう認識だったということでしょう。

藤原親実とは

藤原親実が厳島神社に着任したのは1221年の承久の乱の後。
芸藩通史によると桜尾(廿日市市の桂公園付近)に来たとあり、その後、藤原親実は1234年、安芸守護職となっている。

しかし藤原親実が神社の神主となってから13年後に守護に任じられているのも変。ただはっきり言えるのは、神主と守護は繋がっているということ。それはこの後の記述(棚守房顕覚書9 神主興親と国元の状況など)でもハッキリしている。個人的には厳島神社の神主というのは国造(クニノミヤツコ)みたいな職種だったのではないかなと。
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