大聖院に大量の地蔵やマニ車がある理由

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大聖院に大量の地蔵やマニ車がある理由

まとめ
大聖院厳島神社の別当寺で厳島神社の管理運営を行っていた。それはつまり、厳島神社から収入を得ていたということ。
●明治に入り、神仏分離が進められ、大聖院の僧侶は厳島神社に関われなくなった。つまり、古来から厳島神社で得ていた収入が途絶えるということ。
●ふつうの寺ならば葬式・墓で儲ければいいが、宮島では墓は作れないため出来ない。
大聖院は新たな収入を得るために、仏教施設(仏像や摩尼車)を作り、布施を集めた。
●大聖院は未来の寺のあるべき姿?なのかもしれない。

現在の大聖院

大聖院に訪れた人はこう思うでしょう。
「なんなんだこの寺は?!!」
十一面観音菩薩などの古い歴史的な価値のある像もあるのですが、明らかに新しいおびただしい数の地蔵・仏教的な信仰物が大量にある。中にはアンパンマンの地蔵とかウルトラマンの地蔵とか、信仰とは関係がないどころか、権利関係は大丈夫なのかと疑いたくなるものもある。

大聖院にあるもののは明治以降に作られたものが非常に多いです。八角万福堂(宮島七福神)、遍照窟摩尼殿一願大師稚児大師、五百羅漢、霊宝館…書いているとキリがないので割愛しますが、ここにおびただしい地蔵・摩尼車を足すと、ちょっと信じられない量が大聖院に追加されているのが分かります。
●明治以降というよりは戦後ですね。
●大聖院に行ってみないとわからないので、とにかく一度大聖院に行ってみてください。

江戸時代の大聖院

江戸時代の後期に芸州厳島図会という本が安芸藩によって作られます。この挿絵に大聖院が描かれています。この本は安芸藩おかかえの絵師が書いているので正確な内容だと思われます。

この挿絵を見ると、大聖院にあったのは
●麓の門
●入口の門
●本堂(勅願堂
●客殿(=現在の観音堂??)
大師堂
●御所間?

ぐらいであって、かなりスッキリしたものです。石段には当然、摩尼車はありませんし、おびただしい地蔵もありません。現在のようにごちゃごちゃしていないんですね。

明治維新

明治維新が起こると、明治政府は天皇をトップとした政治を行おうとしました。まぁ、誰も天皇を本気で敬っていたわけではないんですが(詳細は割愛)、天皇は間違いなく、新時代の象徴でした。ならば、天皇(神道)を重んじないといけない。そこで、新しい時代の象徴の神道から古い時代の象徴の仏教を引き剥がそうとしました。
●天皇とは新時代の象徴でした。明治維新で四民平等となったわけですから、実は天皇は「リベラル」な存在です。現代では天皇は保守的なものとされていますが。

日本は1000年以上もの間、神仏習合している
日本に仏教が伝来して以来、神道と仏教は習合してきました。習合というと難しいですが、お互いがお互いを補完しあっていたというべきでしょうね。厳島神社でもそうでした。厳島神社で仏事を行なっていて、厳島神社で重要な儀式となっていたのです。
●仏教の公伝は6世紀とされる。明治維新は1867年か1868年とされるので、1000年以上の神仏習合を引き剥がしたことになる。
●厳島神社では江戸時代まで仏事(=仏教の儀式)が多かった。それが神仏分離でできなくなった。それはつまり、「収入源が激減する」ということ。神仏分離は神社側にとってもダメージでした。

大聖院は厳島神社の管理運営に関わっていました。しかし、仏教が厳島神社を駆逐する訳じゃないのですよ。キリスト教やイスラム教がほかの宗教の施設を壊すのとはちょっと違う。日本人的な感覚なんです。あくまで関わっても駆逐する訳じゃない。明治以降に生まれた私たちはちょっとピンと来ないんですが、日本の伝統で言えば、習合している方が「自然」で日本人的なんですよね。
で、そこを明治政府に無理やりに引き裂かれた。

大聖院のビジネス

大聖院・大願寺は厳島神社の管理運理に関わってきていて、神社側も仏事は大事な収入源だった。大聖院・大願寺は明治政府「嘆願書」を提出して、これまで同様に運営に関われるように願い出ているのですが、却下されます。
●厳島神社の神官は大聖院・大願寺が関わらなくなることには反対していない。しめしめ、くらいにしか思っていなかったのではないのでしょうか。この時点では。

神社にとっても苛烈な神仏分離
厳島神社も「赤」は仏教的であるとして、厳島神社と鳥居の「赤」を削り落とすことを強要されます。厳島神社もこれには反発するのですが、「だったら神社を燃やすぞ」と脅されて致し方なく「赤」を砂で削り落としています。
といっても、徐々に神仏分離・廃仏毀釈は緩くなり、現在の赤い社殿と朱の大鳥居に戻るのですね。
しかし、廃物毀釈の影響は大きく、宮島にあったおびただしい寺はほとんど失われました。寺のかなりの数が大聖院と大願寺関係の寺でした。
さて、これからどうやって生きていくか
大聖院は大きな収入を失い(ゼロになった訳じゃないでしょうが、大幅減はまちがいない)、島内の末寺も失いました。しかし、大聖院はせめて維持したい。宮島では法度(ルール)によって島内に墓は作れません。一般的な寺のように葬式ビジネスは見込めません。
となれば、参拝者のお賽銭と檀家の布施が頼みの綱です。檀家の布施によってあたらしい参拝客の見込める仏教施設を作り、そこに参拝客を呼び込んでお賽銭や、参拝客への物販、儀式を行うことで維持するしかない。その結果が現在の大聖院というわけです。
●あくまで個人の見解ですよ。おそらく当たっているんでしょうけど。ただし、大聖院が仏教ビジネスに傾倒するのは明治以降というよりは、戦後だと思います。原因は神仏分離というよりは、日本人の宗教離れでしょうね。
●大聖院が神仏分離で厳島神社と切り離された時、島民(=檀家)は積極的に大聖院を支えたそうです。単に厳島神社で仏事を行なっていただけではなく、しっかりと島民との関係を築いていたのではないでしょうか。
●江戸時代まで宮島は有名な歓楽街(=風俗街)でした。しかし明治維新後に神の島に歓楽街があるのはダメ!となり、宮島から広島市の江波に歓楽街が移設されます。宮島全体でも非常に大きな収入源を失ったわけです。明治維新は大聖院だけでなく、宮島を襲った苦難でした。大聖院と島民は同じ苦難を乗り越えようとしたのかもしれない。その方法が大聖院の「新仏教施設増設」なのではないかと。

仏教の未来

あくまで個人的な見解です。
日本は現在、宗教離れが進んでいます。まず、葬式をしなくなりました。人によっては、病院で死んだら、そのまま葬儀もせずに焼き場に直行です。収入を葬式に依存している寺はこれから大変なことになるでしょう。若者は悩みがあっても寺に相談せずに、ネットで処理する。
●穢れを嫌う神道はそもそも葬式に関わらないため、日本人の葬式離れと収入は関係ない。また、新党には哲学(教義)がなく、神のご利益が主なので、そもそも上記の問題とはあまり関係ない(経営の厳しい神社はこれまでも厳しくて、これからも厳しいから関係ないって程度のことです。神道が有利って意味じゃないです)。

葬式に依存する体質を変えなかった(というか変えられなかった)ことが問題ですが、私としては「葬式に依存しない寺」の具体像がなかったことが問題だと思うのですね。そのズバリ答えとは言いませんが、一つの答えが現在の大聖院、なのかもしれないな、と思います。

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