大願寺が厳島神社の修造に関わった理由・経緯

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大願寺が厳島神社の修造に関わった理由・経緯

このページのまとめ
大願寺は室町時代に厳島神社と関わるようになった。
●戦国時代には三家として、宮島の権力の一端を担うようにはなった。
大願寺は修験者の広いネットワークを持っていたらしい。
●そのネットワークを利用して、集金をした。
厳島神社の回廊を修繕するという「本願」のための費用として集金をした。
大願寺はネットワークを利用して厳島神社の修繕をするというビジネスをするようになった、ということ。
●これは室町時代から、経済の中心が徐々に貴族や武士といった権力者から庶民へと移ったため。

大願寺と厳島神社

大願寺は厳島神社の修造に関わる三家の一つとされています。でも仏教の寺が神社の修造を担当するなんて変だなと思いますし、三家のもう一つの寺…大聖院が修造を担当すればいいじゃないかと思いませんか?

大願寺が厳島神社に関わるようになったのは室町・戦国時代です。それ以前からあったようですが、目立った動きはありませんでした。それが室町時代後半あたりになると、厳島神社の修造をするようになります。

時代の流れと大願寺

平安時代に厳島神社は平家や京都の貴族の崇敬を受けるようになります。つまりこの時代の顧客とは貴族と武士…いわば金持ちです。いかにして貴族たちの気を引くのか?が厳島神社の発展のカギを握っていることになります。ところが、平安時代・鎌倉時代を経過して徐々に貴族が衰退します。そして室町時代になると、日明貿易が盛んになり、中国から通貨がもたらされます。すると、庶民が豊かになっていきます。経済と文化の中心が徐々に庶民に移っていくのです。

金持ちからドカっと金を貰うってのは戦国時代にも続くのですが、顧客が金持ちだけだった平安時代とは違って、室町時代は庶民も大事な顧客になります。その顧客とのつながりを持っていたのが大願寺でした。

大願寺は修験者と繋がりがありました。三家のもう一方の寺社である大聖院の方が修験者と繋がりはあったのですが、大聖院の修験者は山に篭ってマジの修行をするタイプ。大願寺が繋がっていた修験者は、中国地方全域にネットワークを持っていました。修験者というよりは行商人に近い人たちだったのではないかなと。彼らを通じて大願寺は庶民からお金を集めるようになります。

本願というビジネス

大願寺は本願を掲げて庶民からお金を集めるようになります。本願っていうのは例えば「何々をするためにお金が必要だから寄付して」ってもの。大願寺は「厳島神社の西回廊を修繕するからお金を出して」と言ってお金を集めています。厳島神社という歴史のあるご利益のある神社が傷んでいる…これを修繕するためにお金を出すわけですから、お金を出す庶民も気持ちがいい。というか、神のご加護が得られるわけです。こうやって大願寺は厳島神社を修繕して、その地位を得て行きました。はっきり言って「ビジネス」なんですよ。大願寺は完全に清らかな動機で修繕したんじゃないのですよ。でも、大願寺は当時の社会構造にあったビジネスをしたってことです。ここは凄い。
●このビジネスが成立するのは当然「厳島神社はすごい神社」という世間の認識があってこそです。つまり大願寺だけでもビジネスは成り立たない。
●大聖院の方が歴史があるが、このビジネスは行えなかった。ネットワークがないから。
●厳島神社にもこのビジネスは行えなかった。ネットワークがないから。
●そういう意味では大願寺が存在しなかったら、厳島神社はこの辺りで衰退し、消えていたのかもしれない。

その後

その後、厳島神社は大内・毛利そして江戸時代は浅野と庇護を受けながらも、顧客の中心はどんどん庶民へと以降していきます。江戸時代には管絃祭のときに大阪から有名な歌舞伎役者を呼び寄せて興行を行います。歌舞伎役者なんて当時は卑しいものです。卑しい存在ではあるのですが、庶民には大人気なんです。そういう芝居を厳島神社の裏の芝居小屋で行っていた。顧客の中心が庶民になっていたからです。

この辺りの社会情勢に合わせて業態を変えていくのが厳島神社の強さだと思います。

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