腐女子のための宮島観光

MENU
TOP >> 腐女子のための宮島観光まとめ 宮島 大内義隆 毛利隆元 陶隆房(陶晴賢) 毛利元就
スポンサードリンク

腐女子のための宮島観光

まとめ
後白河法皇御手植えの松…平安時代末期に時代をかき回した両刀使いの天皇、後白河天皇のお手植えの松。
大鳥居…六本足の現在の大鳥居の原型を作ったのが大内義隆。大内義隆は戦国時代の有名なホモセクシャル大名。
要害山塔の岡包ヶ浦公園滝小路博奕尾柳小路血佛多宝塔など…大内義隆と肉体関係があった陶隆房と、同じく大内義隆のお手つきだった毛利隆元・小早川隆景兄弟が戦った厳島合戦の関係する観光スポット。
厳島神社…毛利隆元・小早川隆景兄弟の毛利氏が建てた。厳密にいうと毛利隆元の息子の毛利輝元の時代に建った。
千畳閣…大内義隆の同性愛を批判したイエズス会が宮島にやってきた際に千畳閣で送迎会の食事をした。

後白河天皇

男色家の後白河天皇
後白河天皇(上皇・法皇)は平安時代末期で平清盛や源頼朝と渡り合った天皇。謀略というか、無茶苦茶な方法で状況をひっくり返し、かき回したことで有名な人物。「男色家」の両刀使いとしても有名。平安時代に厳島神社に参拝していて、厳島神社の裏に明治に切り倒した「後白河法皇御手植えの松」が展示されています。

藤原信頼
藤原信頼と男色関係があったという噂がある(愚管抄・平治物語など)。理由は「急速な出世」。あまりの急速な出世を問題視した信西が後白河天皇に楊貴妃に溺れて政治をないがしろにした物語を書いた「長恨歌」の巻物を送って諌めたというエピソードがあるほど。平治の乱でその信西を斬首するが、平治の乱の終わりで藤原信頼も死刑になる(28歳)。後白河天皇(の同性愛)に人生を狂わされた人物、という言い方もできる。
●同じ構造で平清盛が白河天皇の隠し子という噂があり、これもその理由が「急速な出世」とされる。この辺りの話は史実かどうかは怪しいが、そういう噂は朝廷内で実際にあったのだと思われます。
●藤原信頼は優秀な人物で、後白河の寵愛どうこうはやっかみという可能性もあるが、同性愛関係があった方が面白いのでそちらの方が定説になっている。

藤原成親
藤原成親とも男色関係があったという噂がある。
妹が藤原信頼の妻になったことから、信頼つながりで後白河天皇の近習となる。後白河の寵愛は強く、愚管抄(著:慈円)によれば男色関係にあったという。平治の乱で藤原信頼と行動したが、妹が平重盛の妻だったことから許される。嘉応の強訴では、一旦は解官・配流(=島流し)にされるものの、4日後には取りやめになるなど後白河上皇からのエコヒイキがすごかった。成親は平重盛の息子の維盛に娘を嫁がせているのですが、後白河との結びつきが強く、鹿ケ谷の謀議で「平家討伐」の気勢をあげます。でも、それがバレて配流先(備前国)で死亡(というか暗殺されたとも)。この人もある意味で後白河に人生を狂わされた人物。

大内義隆

大内義隆は現在の宮島の六本足の大鳥居の原型となるものをたてた人物。それまでは宮島にあっても二本足の鳥居でした(ほとんどの時期に鳥居はなかったよう)。また、現在の厳島神社の神主の野坂氏の先祖である棚守房顕を重用した最初の人物で、いまいち宮島では有名ではありませんが、宮島の歴史を語る上で欠かせない人物です。

大内義隆といえば…衆道(同性愛)
周防の大名の大内義隆は有名なホモセクシャル(正確にはバイセクシャル)でした。日本では奈良・平安時代からホモセクシャルは珍しいものではなく、罪悪でもありませんでしたし、朝廷の公家たちも同性愛に勤しんでいましたから、大内義隆が「異常」ってことではないです。ちなみに大内義隆の父親の大内義興もバイセクシャルでしたし。

大内義隆が幼少時に、父親の大内義興は跡目将軍の争いのために京都に上洛していて、周防には居らず、父親とは触れ合っていなかった。それも大内義隆の男性を渇望する性格を強めたのかもしれないですね。
イエズス会
イエズス会が山口にやってきて布教の許可を大内氏に取るときに、同性愛を否定するキリスト教は大内義隆を否定したとされます。そのイエズス会も宮島に来島していて、千畳閣で送迎会の食事をしています。

大内義隆は部下の陶隆房と肉体関係を結びます。陶隆房はまだ14歳前後。大内義隆は20代の後半。二人は義隆が住む山口と、隆房が住む富田若山城(=周南市)の間にあった松ヶ崎の寺で逢瀬していました。ある時、隆房が眠っていたので、起こさずに歌を残して大内義隆が帰るなんてこともありました。

そんな熱烈に愛し合う大内義隆と陶隆房ですが、当時の同性愛は「大人の男と少年」という組み合わせで、少年が成人すると肉体関係・恋愛関係は解消されるものでした。それで2人の関係は解消され、大内義隆は別の少年と肉体関係を持つようになったようです。
あくまで推測ですが、その大内義隆の相手には大内晴持(大内義隆の養子)・毛利隆元・小早川隆景などがいます。毛利隆元・小早川隆景に「隆」という字が入っているのは、そういうこと!だとも。

大寧寺の変
しかし天文20年(1551年)に大内義隆はその陶隆房に謀反を起こされ、自害に追い込まれてしまいます。陶隆房はその以前からかなり不穏な行動をとっていたいて、大内の家臣の冷泉隆豊(大寧寺で死亡)や杉重矩(後に陶に鞍替え)は大内義隆に陶隆房を誅殺するように進言していたのですが、結局、対応を一切せずに大寧寺の変を招いています。この辺りに、2人のかつての同性愛関係が影響しているのではないか?とも。男(陶隆房)の嫉妬が原因? その一方で大内義隆は愛された男の余裕で
「隆房は俺のことを愛しているから、そんなのは気を引くためのことか、単なる噂だ」
とでも思っていたのかもしれないです。

陶隆房

陶隆房は大内義隆を自害に追い込み、厳島合戦で毛利に敗れて死んだ人物。何度か宮島に訪れています。棚守の屋敷にも滞在したとあります。ただし、この棚守の屋敷は現在の観光名所になっている棚守屋敷跡(1600年くらいに建っているので陶隆房の時代には存在しない)ではなく、中江町にあった屋敷のことだと思われます。

厳島合戦
大寧寺の変の後、陶隆房は陶晴賢(=陶全薑=出家した名前)と名前を変えて、毛利元就と厳島合戦に挑みます。この時、毛利の主力となった毛利元就の子供のうち、毛利隆元・小早川隆景は、かつて陶隆房が愛して殺した大内義隆の寵童で衆道関係にあった(と言われている)兄弟です。
そう考えると厳島合戦は男同士の愛憎乱れる戦に見えちゃうんですよね。

毛利隆元

毛利隆元は厳島合戦で陶隆房と戦った毛利元就の長男。
彼は天文6年(1537年)に14歳で大内義隆の元に「人質」として送られます。当時としては珍しいことではなく、毛利は長男を大内に送り込むことで、大内の信頼を得ようとしていました。しかし、人質にしてはかなり歓迎・優遇されます(大内家臣に不満が出るくらいに)。そこで、毛利隆元は大内義隆と衆道関係にあったというのが定説になっています。
陶隆房との友情
毛利隆元が大内の人質時代のこと、毛利隆元は大内の家臣たちと信仰を深めていました。その中に同年代だった陶隆房もいました。1540年(天文9年)に毛利元就の吉田郡山城を尼子が大軍で攻めました。毛利隆元は自分が大内の人質になっているから父の毛利元就が尼子に寝返ることが出来ない!と考えて自殺しようとします。それを陶隆房が「お前の父は私が必ず助ける!」と自殺を思いとどまらせ、大内義隆に進軍を進言して、見事に尼子に勝利して追い返し、毛利元就を助けた。かっこいい! そんな陶隆房と毛利隆元がのちに厳島合戦で相見えることを考えると感慨深い。
大寧寺の変後
大寧寺の変後、毛利隆元は偉大な父の毛利元就に反抗してまで陶隆房との対決を進言しています。この進言の時は毛利は到底大内には勝てそうにない状況でした。この進言の動機に大内義隆との関係があったとしても不思議じゃない。それに毛利隆元は超ファザコンで、幼少期に父親不在だった大内義隆と精神構造が似ている?のかも。
●毛利隆元は調略謀略の鬼の毛利元就と比べて地味。武勇の小早川隆景・吉川元春の弟たちと比べても地味で、本人も気にしていたようですが、毛利隆元の死後、毛利家は財政的にかなり苦しくなります(兵隊も集まりづらくなったとか)。実は毛利隆元は商人や兵士からかなり人望と信頼があったのです。毛利の躍進の陰に地味ながら誠実な毛利隆元の存在があったのは間違いない。そういう観点からみると、陶隆房との対決を進言したのも、決して感情的なものではなかったのかもしれない(というか、感情的な進言じゃなかったんでしょうね)。

小早川隆景

毛利家のもう1人の寵童の小早川隆景は結婚はしたんですが妻である問田大方との関係も「妙」。黒田官兵衛の「黒田家譜」という本には小早川隆景が問田大方と接するときは正装だったとか、「隆景は一生妻や妾を近づけなかった」ともある。そして子供は一生できなかった。
大内義隆に衆道を仕込まれて女に興味をなくしたか??
色々と妄想を掻き立てられるなぁ。

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集