血佛・血仏(チボトケ)…大元公園内にある厳島合戦の慰霊碑

MENU
TOP >> 血佛・血仏(チボトケ)…大元公園内…宮島 観光地・名勝 おすすめ度☆☆★★★ 戦国時代 厳島合戦 歴史 江戸時代
スポンサードリンク

血佛・血仏(チボトケ)

名前血佛・血仏(チボトケ)
場所大元公園の中。
創建厳島合戦で死んでいった陶の兵士たちの供養塔として明暦4年(1658年)に建てられた。

詳細

厳島合戦で死んでいった陶の兵士たちの供養塔として明暦4年(1658年)に建てられた。厳島合戦が1555年の10月だから戦後100年経って突然、供養塔が建てられたということになります。個人的には江戸時代初期に災害があって、その原因が「厳島合戦で死んだ怨霊」だ!となって供養塔が建ったのではないか?と推測しています。
陰徳太平記の出版が享保2年(1717年)なので、それとは関係がない。

厳島合戦について

厳島合戦があったのは弘治元年(1555年)。9月末に対岸から毛利元就が宮島に上陸。上陸したのは包ヶ浦で、そこから博打尾を通って、厳島神社の辺りへとやってくると、陶軍はパニックになり、総崩れになりました。毛利軍は3000とも4000とも言われ、ともかくその程度。陶軍は2万か3万という大軍だったのにも関わらず、敗北してしまいます。
●この辺りは誇張があり、毛利はもっと多かったのではないかとも。また、毛利は村上水軍の援助もあったはず。もっと拮抗していたのだと思われます。
陶晴賢は厳島合戦の前に、親族に「負けるかも」という手紙を残していて、陶が圧倒的だったというのは怪しい。この辺りは毛利贔屓の毛利を持ち上げる「神がかり的」な演出くさい。

陶晴賢はわずかな家来とともに大元浦へと落ちていった。棚守房顕覚書「棚守房顕覚書89 厳島の戦(4)」によれば、大元神社のある大元浦から、さらに南の「大江」で自害したことになっています。大江から対岸の大野はすぐ近く。しかし、船がなく、どうしようもなくなり観念したのです。よって、陶晴賢大元公園のこの辺りで死んだわけではないです。

血佛池

この血佛は池で、その池には厳島合戦が終わってからもしばらくは血が溜まっていたそうです。もしかしたら、首実検(=打ち取った敵をチェックして報償を決めるもの)をしたとあるので、ここでやった?のかも。ちなみに棚守房顕覚書によれば首は8000個あったとか。

実際に血が溜まっていたのかどうかは伝承ですから、分かったものではないですが、ただ、100年後に供養塔を建てるってことは厳島合戦の記憶がかなり強烈に残っていたってことでしょう。
宮島は厳島合戦以外では戦場になったという記録はないです。前代未聞の一大事、だったからこそ島民の記憶に強く残ったんでしょうね。

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集