現在の大鳥居の原型は大内義隆が建てた鳥居

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現在の大鳥居の原型は大内義隆が建てた鳥居

まとめ
●天文16年(1547年)に大内義隆が大鳥居を建てた。現在と同じ足6本で、のちに何度か再建されているが、現在の大鳥居はこの大内義隆の鳥居を踏襲していると思われる。
●永禄4年(1561年)に毛利元就大鳥居を再建。大内義隆の建立から14年しか経過していない。
●大内のと毛利の大鳥居には共通点が多い。大工も同一人物。6本足。毛利は大内を踏襲したのではないかと思われる。これは毛利が大内の後継者であり、それが安芸国と中国地方の権力者になるにふさわしいという主張があったのではないか。

大内義隆の大鳥居

天文16年(1547年)に周防の大名の大内義隆が厳島神社の大鳥居を建てました。この大内義隆の大鳥居建立の以前に厳島神社の鳥居が建立されたのは応安4年(1372年鎌倉時代)。大内義隆が建てる時には以前の鳥居は影も形もありませんでした。1372年に建てた鳥居はとっくに倒れて無くなっていたようです。

1547年の建立の事情
天文16年(1547年)の大鳥居建立は厳島神社の管理も行なっていた大願寺尊海という坊主です。大願寺の要請によって大内が建てたという形になっています。ただし3年後には尊海は弟子の円海に大願寺を譲っている。天文16年(1547年)の時点で健康状態に問題があったのかもしれない。ま、なかったのかもしれないけど。

どうやって大鳥居を大内は建てたか?

この時の大内の鳥居の材料などの資料が簡単にですが残っています。見る限り、天文16年(1547年)の大鳥居は現在の日本の軸に4本足の補助があって合計6本の足がある現在の大鳥居と同じようになっています。問題はこの6本足の鳥居をなぜ建てたのか?です。大内が建てる以前の鳥居は二本足だったハズです(一遍聖絵・一遍上人絵伝に二本足の鳥居が描かれている)。6本足の方が安定するのは誰でも分かるんですが、あの大きさの鳥居をドデンと何の前例も無く建てるのは、あまりに前人未到というか、参考にするべきものがありません。となると、大内は何の情報もなく、あの度肝を抜かれる巨大な鳥居を、安定させるように6本足で建てたってことになります。
この辺りのことはよく分かっていません。

毛利による大鳥居の再建

ちなみに天文16年(1547年)の14年後、永禄4年(1561年)に毛利元就が大鳥居を再建しました。その大鳥居はどうやら大内の大鳥居とほとんど同じデザインで、材料も似ている。建てた大工も同一人物だった。でも、どうして再建したのかは、分かっていませんが、大内が何の情報もなく、あの大鳥居を建てたことを考慮すると、まぁ、傾いたり、塗装が剥がれたり、何かしら不具合があったとしても全然不思議じゃないです。それで毛利が再建したんでしょう。

でも、それだけで再建しなくちゃいけない理由にはならない。
その当時、安芸国を統治していた毛利が再建しなくちゃいけない理由ってあるのでしょうか。

ちょっと背景をまとめましょう。
天文16年(1547年) 大内義隆が大鳥居を建立。
天文20年(1551年) 大寧寺の変。陶隆房の謀反により大内義隆が自殺。
天文24年(1555年) 厳島合戦で毛利元就が陶隆房(当時は陶晴賢)を破る。
永禄4年(1561年) 毛利が大鳥居を再建

私個人の意見ですが…
大内義隆の部下の陶が謀反で大内を滅ぼし、その陶を倒した毛利が厳島を勢力下に起きました。毛利は安芸国の統治者でしたが、決して絶対的権力を持っていたのではなく、地方の氏族をまとめている程度の存在でした。それが厳島合戦で陶を倒したことで、安芸国の統治者となった。つまり、毛利が権力者である所以は「大内の正当な後継者である」ことだった。そして厳島神社を管理することが毛利が大内から権力を引き継いだ根拠であり、その分かりやすい象徴が大鳥居だった。大鳥居がもしも傾いていたら、それは毛利の権力の根拠が揺らぐことになる。だから、大鳥居は無茶をして建て直さなくちゃいけなかった。そんなところじゃないでしょうか。

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