福島正則

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まとめ

福島正則とは
●戦国時代から江戸時代にかけての武将。賤ヶ岳の七本槍。
●豊臣秀吉の重鎮で、重用されていた。福島正則の母が秀吉の叔母にあたる。朝鮮征伐など勇猛な武将とされるが、政治力もあったよう。
●石田三成と仲が悪かったために、関ヶ原の戦いでは徳川についたので、江戸時代に入ると安芸国の藩主となる。
●しかし、洪水によって壊れた広島城の改築を「謀反の意思あり」と難癖をつけられて、川中島に左遷され、そこで死亡。福島家は滅亡した。
●宮島の能舞台の常設は福島正則が藩主のときに行われ、平家納経の修繕も福島正則の命による。他にも文化振興・寺社仏閣の修繕や、道・街並みなどのインフラ整備もしたらしいが、広島・・・特に宮島ではその功績はほとんど語られない。
●福島正則は藩主になると寺社から領地を取り上げて、配分し直した。そのとき領地が減ったことで、福島は恨まれたらしい。

軽く福島正則を解説

福島正則は永禄4年(1561年)に生まれた。実家は「桶屋」だったとも。千畳閣を作った安国寺恵瓊が実際は商人の息子だった(安国寺恵瓊が安芸武田氏の子孫というのは後付け設定の可能性が高い)ことを考えると、この時代はビジネスのセンスを持った人物が活躍したのかもしんない。
福島正則の母が秀吉の叔母にあたる。つまり秀吉と「親戚」であることも、ある程度は重用の理由かもしれないが、もともと武功だけでなく、頭がよく政治センスがあったのだと思われる。つまり、かなり優秀な人物っぽい。
秀吉の全国制覇の後は朝鮮征伐に参加する。このあたりの武功のイメージが強く、実際、激情家だったらしいが、筋肉脳のおばかさんでは無かったと思われる。秀吉の死亡により、朝鮮征伐は頓挫。その後、関ヶ原の戦いでは、石田三成と仲違いしたことから徳川についた。徳川についたのは別に徳川に忠誠する気持ちがあったわけではないので、江戸時代に入っても「謀反」を恐れられたよう。安芸国の藩主となり、インフラ整備などを行なった。

広島で洪水があり広島城が壊れたので、それを修繕したところ、江戸幕府から「謀反の疑いあり」とされて、川中島に左遷された。福島家には子供がいなかったために、そのまま福島家は滅亡。
この「いいがかり」に関しては福島は無実というのは一般的な見方。ただ、福島はそれだけ優秀な人物だったのだと思われる(だから、謀反されるとヤバイという感覚が幕府にはあった)。ちなみに福島正則は広島城の修繕について幕府に問い合わせをして許可をもらっていた。

福島正則と宮島の文化振興

平家納経と福島正則
福島正則は藩主になる際に、宮島に立ち寄り、そこで厳島神社宝蔵にあった「平家納経」を見せてもらったよう。当時、平家納経は美術品として他の地域や中央でもかなり有名で、厳島神社といえば平家納経の美しさ!という評判だった。ところが、平家納経はボロボロだった。そりゃそうなんですよね。平安時代の末期の12世紀に作られたもので、福島正則が広島藩主になったのが「1601年」ですから400年以上経っていて、保存技術もない時代、ボロボロでも不思議じゃない。そこで平家納経の修繕を考えた。福島正則としては「文化振興」になるし、当時の厳島信仰は広島では絶対的でしたから、神官・僧侶・民の指示も得られると思った。
●戦国時代に宮島にやってきたイエズス会の宣教師が「この地域の民は厳島神社の神を盲信していて、全然布教できない」とぼやいている。

それで、平家納経を修繕した。単に綺麗に直すだけでなく、お経を入れる「櫃(ヒツ)」を作った。しかもかなり精巧な模様を入れた工芸品です。おそらく京都の工芸師に作らせたのだと思われる。また、願文を整備している。願文というのは「神様にお願いすることを書いた書類」で、清盛願文と呼ばれたただの「紙切れ」だったものを表紙をつけて、また、串筆文書というこれまた「紙切れ」もまとめて貼り付けて一つの「書類」として整備し、さらに、ススキ・鹿の絵を入れた。この絵が有名な絵師である俵屋宗達のもの。時間・人・金のかけ方は尋常ではない。
●俵屋宗達の作品はなかなか残っていないのと、俵屋宗達の仕事で確認できるものとしてはこれが初出とされる。かなり貴重なもの。

能舞台
江戸時代以降は能舞台が常設になった。これ以前にも能舞台はあったが常設ではなく、イベントごとに仮設していたらしい。これが福島正則のときに常設になった。福島正則が文化振興に力を入れるのは「文化の王」が「王の証」という感覚が土台にあったからだと思われる。ただし、能舞台を作って欲しいと嘆願したのは「棚守元行(棚守房顕の子供)」であり、能舞台の材料を「宮島から切り出した木で」作ったために、福島正則の屋敷が焼けるという天罰が下されることになる。
●宮島の海から「火の魚」が飛び出して、広島城の大夫(=福島正則のこと)の屋敷に飛んで行った!と、僧侶が証言したという記述が残っている。もちろん、言いがかり。なぜこんなことを言われるかというと、福島正則が寺社の領地を取り上げて再配分した…というか、領地を減らしたから。
●宮島の木は厳島神社の神の「所有物」であり、勝手に切り出して使ったらいけない!ってのがある。これはある程度は正しいのだけど、宮島の神聖な木で能舞台を作るべきであるという理屈も成り立つ。例えば、奇祭の御柱祭はそういう理屈で山から木を切り出すわけですからね。どうとでも成り立つ言いがかりで、単に福島正則が嫌われていたから。

福島正則は時代の境目に立った人物

福島正則は広島藩主になると、まず検地をした。土地を調べて納める年貢を決定した。検地に関しては無茶なことはしてない。むしろ評判はいい。寺社の修繕をする一方で、寺社の領地を取り上げて、その領地を再配分した。その際に以前より少なく配分した。とはいっても、「激減」とは言えないレベル。宮島の場合は900石を800石にした!くらいだったはず(うろ覚え)。

戦国時代の寺社は宗教法人というよりは、神や仏をバックにした戦国大名と言って差し支えのないレベルだった(特に大きな寺社は自前の軍隊を持っていた)。当時は神仏が戦争の勝ち負けを決める大きな要素と考えていて、戦争前に寺社に参拝するくらいだったのですから、寺社が軍事力を持って戦争をするってのは恐怖だった。
●実際、厳島神社の神主の友田興藤は大内の傘下だったにも関わらず、大内が京都で活動しているうちに大内に楯突いて滅ぼされている。友田が死んだ後には大内の部下が神主となるが、それも厳島合戦後には殺され、明治維新まで厳島神社の神主は不在となる。そのくらいに厳島神社の神主が権力を持つことは恐ろしいことだという感覚があったよう。

寺社を無力化する代わりに、施設の整備は藩や幕府がしますよーってのが方針になっていて(能舞台の設営・平家納経の修繕はこの流れの中にある)、福島正則がやったことはなんら「異常」なことじゃないし、当然のことなんですが、そこを淡々とこなしていったところが、不評だったんでしょうね。上に書いたような厳島神社への投資があっても、福島正則はイマイチ評判がよくない。

その不評の一つが「太夫戻岩」に見られます。
太夫戻岩ってのは弥山登山ルートにある岩で、弥山に登ろうとした福島正則が神に拒絶されて、引き返したというエピソードがあります。つまり、厳島神社の神に福島正則は拒絶された。だから、川中島に左遷させられたのだ!ってこと。つまり「安芸国のトップは厳島神社が決めるのだ!」という意味がある!のかも。
●広島にはなぜか現代でも「広島の藩主は毛利」という感覚がある。江戸時代に入って、福島と浅野が藩主となり、決して無茶な藩政をしていたわけではないのに、です。

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