福島正則と厳島神社関係の簡単な年表

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福島正則と厳島神社関係の簡単な年表

1600年 関ヶ原の合戦
1601年 安芸藩の大名に
1602年 平家納経を修繕
1612年 大坂の陣
1619年 広島城の改修と、領地没収

簡単な年表

1600年 関ヶ原の合戦
福島正則は豊臣秀吉の家臣ですから、本来は石田三成側でも不思議じゃないんですが、石田三成と関係が悪化し、加藤清正とともに襲撃するほどでした。この襲撃事件が元で徳川家康の家臣となり、関ヶ原では徳川家康側で戦い、戦勝側となります。福島正則は関ヶ原以降は形式としては徳川の家臣ではあるのですが、本来は豊臣側の人間です。これが後の福島正則の凋落というか、江戸幕府による嫌がらせの根本となります。
1601年 安芸藩の大名に
戦勝側である福島正則は敗者の毛利を安芸から追い出して安芸藩の大名になり、安芸の検地をしました。検地は土地とその土地から取れる作物の量を調べて「年貢」を決めることです。この時、安芸藩内の寺社の土地を全て取り上げて、その土地を安芸藩のものとしました。当然ながら、厳島神社が保有していた領地も取り上げています。
この時の検地は決して厳しいものじゃなく、申請を認める程度の緩やかなものだったようです。つまり、民から搾り取ろうとしたわけじゃなかった、ようです。
●藩主になるときに厳島神社平家納経を見たよう。

1602年 平家納経を修繕
福島正則は厳島神社宝蔵を調べ、そこにあった平家納経の清盛願文に綺麗な表紙をつけました。現在は表紙に鹿と月とススキの絵が書いてあるんですが、これはこの時にくっつけられたものであって、それまではありませんでした。また、すでにボロボロだった平家納経自体を修繕しました。
●平家納経だけでなく、常設の能舞台を作った。ただし、能舞台は棚守元行からの要請による。能舞台の材料を宮島の木を切って使ったために、「神のもの」を勝手に!と批判された。
●福島正則はインフラ整備して善政を敷いたが、厳島神社や寺社の領地を取り上げたことから嫌われたらしい。それで福島正則に関してはいいエピソードがない。太夫戻岩を参考に。

1612年 大坂の陣
江戸幕府(徳川家康)から大坂の陣(冬夏どちらも)の出陣を要請されるが、拒否(かといって豊臣側にもつかない)。そこには福島正則の中に豊臣秀吉への忠誠心があったからだと思われる。
1619年 広島城の改修と、領地没収
広島城が雨漏りしたのを修繕。しかし江戸幕府は勝手な城の修繕を禁じていたため、これを理由に福島正則は領地を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)の藩主となった。これは実質、出向・左遷というよりは「島流し」。福島正則が安芸国を没収されたのは、幕府の言いがかりだが、その前に「大坂の陣の参加拒否」と、そもそもが豊臣側の人間だったことがある。もう一つ、大事なポイントは福島正則が安芸で善政を敷いていた、ということにある。全てを合わせると福島正則は「幕府にとって脅威となる可能性がある」というのは、被害妄想とは言えない判断でしょう。
●川中島で福島正則は死亡。福島家には子供がいなかったために福島家は滅亡。

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