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御手洗川を曲げて白糸川と合流させたのは戦国時代
私は長いこと、「御手洗川を曲げて、厳島神社境内内に流れ込まないようにしたのは平安時代末期」と考えていたので、知った時は驚きました。なぜなら、川が向かって右側へと流れていくのは寝殿造りのパターンだ!というのが寝殿造りの説明であるからです。となれば、厳島神社は寝殿造りを意識して作ってはあるものの、決して完全に踏襲してはいないってことです。いや、本当に寝殿造りと言っていいのかも怪しい。何せ、現在の厳島神社自体も戦国時代に毛利元就に改修されたものだからです。それ以前が、どのような形状だったのか? 詳細は誰にも分からないのです。
まとめ
●1569年に毛利元就の長男の毛利隆元が死亡。毒殺を疑った元就が首謀者と考えた和智兄弟を捕らえ、逃げ込んだ厳島神社で殺害。つまり神社が血に穢れた。
●1571年に毛利元就によって改修される。理由は2年前の和智兄弟の殺害によって神社が穢れたため。
●これ以降1580年代に土砂災害が起き、厳島神社境内が土砂で埋まる。神社が何度も毛利に砂を取り除く工事を要請している。しかし、戦争が忙しく、取り合っていない。
●御手洗川と白糸川を合流させ、流れを曲げて厳島神社に流れ込まないようにした。文書によると理由は「近隣住居のゴミが境内に流れ込むから」。
●戦国時代までは川は境内内に流れ込んでいた。
●土砂や砂が堆積したはずだが、明確に「砂を移動させた」という記録はない。だが、していないわけはない。
●平安時代から戦国時代まで、砂は境内内に流れ込み放題だった。ということは海はもっと広かったに違いない。
●1945年の枕崎台風による土砂災害では、現在の西の松原・大元公園あたりの海岸を埋めるほどの量の土砂が流れ込んだ。平安時代から戦国時代までの間に境内内に流れ込んだ土砂が「多少」のハズがない。
●私は町家通りから厳島神社に続く、現在の道はその土砂で作られたものではないかと思っています。
●1569年に毛利元就の長男の毛利隆元が死亡。毒殺を疑った元就が首謀者と考えた和智兄弟を捕らえ、逃げ込んだ厳島神社で殺害。つまり神社が血に穢れた。
●1571年に毛利元就によって改修される。理由は2年前の和智兄弟の殺害によって神社が穢れたため。
●これ以降1580年代に土砂災害が起き、厳島神社境内が土砂で埋まる。神社が何度も毛利に砂を取り除く工事を要請している。しかし、戦争が忙しく、取り合っていない。
●御手洗川と白糸川を合流させ、流れを曲げて厳島神社に流れ込まないようにした。文書によると理由は「近隣住居のゴミが境内に流れ込むから」。
●戦国時代までは川は境内内に流れ込んでいた。
●土砂や砂が堆積したはずだが、明確に「砂を移動させた」という記録はない。だが、していないわけはない。
●平安時代から戦国時代まで、砂は境内内に流れ込み放題だった。ということは海はもっと広かったに違いない。
●1945年の枕崎台風による土砂災害では、現在の西の松原・大元公園あたりの海岸を埋めるほどの量の土砂が流れ込んだ。平安時代から戦国時代までの間に境内内に流れ込んだ土砂が「多少」のハズがない。
●私は町家通りから厳島神社に続く、現在の道はその土砂で作られたものではないかと思っています。
御手洗川は境内に流れ込んでいた
御手洗川を曲げたのは12世紀の厳島神社修造の時ではなく、戦国時代。ということはそれ以前は、御手洗川は厳島神社付近の海に流れ込んでいて、現在の「鏡池」も修造当時はなかった。これは毛利家の文書や厳島神社の文書から明らかです。ちなみに、流れを曲げた理由は「周辺の住居のゴミが神社内に流れ込むから」です。穢れたものが境内に入るのは嫌ったわけです。
それはつまり…
砂はずっと堆積していたし、除去していた
戦国時代まで厳島神社の境内内の海には川が流れ込み、砂が堆積していた。その砂を除去する作業をおそらく定期的に行っていた。除去した砂がどこに運ばれたのかはハッキリとしない。私は現在のフェリー乗り場から町家通り、厳島神社へつながる平地は、厳島神社に堆積した砂を除去して移動させたものではないかと考えています。
戦国時代まで厳島神社の境内内の海には川が流れ込み、砂が堆積していた。その砂を除去する作業をおそらく定期的に行っていた。除去した砂がどこに運ばれたのかはハッキリとしない。私は現在のフェリー乗り場から町家通り、厳島神社へつながる平地は、厳島神社に堆積した砂を除去して移動させたものではないかと考えています。
平安時代末期の修造時に海はもっと広かった
境内というか神社内の「海」は現在よりもずっと広かったと思われます。広かった周辺の海が、御手洗川から流れ込む砂と土砂によって徐々に遠浅の浜になり、徐々に「陸」になっていった。
毛利家の文書には「橋を小さくした」という記述があります。戦国時代以前は現在よりも1.5倍ほどあったのです。それも戦国時代に縮小した!ということなので、平安時代・鎌倉・室町時代の中でも、何段階か縮小していても不思議じゃない(記録はないが)。厳島神社の周辺の店や居住地がある場所はほとんど埋め立ててできたもので、そこも平安末期には海だったのかもしれない。
境内というか神社内の「海」は現在よりもずっと広かったと思われます。広かった周辺の海が、御手洗川から流れ込む砂と土砂によって徐々に遠浅の浜になり、徐々に「陸」になっていった。
毛利家の文書には「橋を小さくした」という記述があります。戦国時代以前は現在よりも1.5倍ほどあったのです。それも戦国時代に縮小した!ということなので、平安時代・鎌倉・室町時代の中でも、何段階か縮小していても不思議じゃない(記録はないが)。厳島神社の周辺の店や居住地がある場所はほとんど埋め立ててできたもので、そこも平安末期には海だったのかもしれない。
現在と平安時代の風景はまったく違う
現在の厳島神社は1571年に毛利元就が修造したものです。これがそれ以前の厳島神社のそれと「同じ」かどうかは分かりません。同じか、ほとんど同じということになっていますが、施設名が同じであるからといって、同じとも言えない。それに海が今よりも大きかったとなると、現在のように入江に神社があるというよりは、陸から見ても海にポツンと浮かぶ「海上神殿」というものだったわけです。
よく、「厳島神社は弥山を祀っている」と言われますが、神社から弥山は見えませんし、弥山と神社が結びついたのは明治以降(神仏分離がきっかけ)のことです。それでも「弥山を祀ってる」と言われて、現代の私たちが納得するのは、厳島神社が入江の奥に鎮座しているからでしょう。鳥居から見た時に、バックに陸があり、山があるから「弥山を祀ってる」と言われて納得してしまう。でも、これが奥まで広々と海で、海上にポツンと厳島神社が浮かんでいたとしたら? 「弥山を祀ってる」とは思わないでしょうし、思えないでしょう。「この神社は海と関わりのある」と一目で分かるはずです。
そういう風景だったと思われます。
現在の厳島神社は1571年に毛利元就が修造したものです。これがそれ以前の厳島神社のそれと「同じ」かどうかは分かりません。同じか、ほとんど同じということになっていますが、施設名が同じであるからといって、同じとも言えない。それに海が今よりも大きかったとなると、現在のように入江に神社があるというよりは、陸から見ても海にポツンと浮かぶ「海上神殿」というものだったわけです。
よく、「厳島神社は弥山を祀っている」と言われますが、神社から弥山は見えませんし、弥山と神社が結びついたのは明治以降(神仏分離がきっかけ)のことです。それでも「弥山を祀ってる」と言われて、現代の私たちが納得するのは、厳島神社が入江の奥に鎮座しているからでしょう。鳥居から見た時に、バックに陸があり、山があるから「弥山を祀ってる」と言われて納得してしまう。でも、これが奥まで広々と海で、海上にポツンと厳島神社が浮かんでいたとしたら? 「弥山を祀ってる」とは思わないでしょうし、思えないでしょう。「この神社は海と関わりのある」と一目で分かるはずです。
そういう風景だったと思われます。
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