千畳閣の営業時間・入場料(拝観料)と歴史由来

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千畳閣の概要

千畳閣は厳島(宮島)にある観光名所。現在は厳島神社末社豊国神社
入場料大人100円 子供50円。入り口で徴収。
営業時間9時〜16時半まで
土足厳禁。飲食厳禁。
祀神豊臣秀吉・加藤清正
場所
厳島神社のすぐ近く。階段を上った丘に千畳閣があります。
厳島神社が真っ赤で目立つものだから、そちらに目を取られて、千畳閣は見落としがちなんですが、見晴らしも良く、歴史を感じる名所です。是非行ってください。

千畳敷とも言われます。

アクセス

千畳閣の歴史

歴史の経緯
1587年。豊臣秀吉がこの場所に、戦没者を鎮魂するためのお経を唱える「大経堂」を「安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)」に命じて作ろうとしました。しかし、完成までに豊臣秀吉が死んでしまい(1598年)、また、命じられた安国寺恵瓊も関ヶ原の合戦で西軍首脳として斬首。結果、建築は頓挫。それが千畳閣です。千畳閣というのはめちゃくちゃ広いという意味の名前。実際には857畳で1000畳はありませんけどね。それでも広いです。
●建築途中で頓挫したので、千畳閣は天井がありません。見上げると構造が丸見えです。
●壁がないのも、建築中断のため。
●千畳閣の瓦には金箔を貼った跡が見られたので、昭和の改修の際に瓦の一部に金箔を貼った。

そもそもは仏教施設・現在は神社
戦没者への鎮魂のための御経を唱える「仏教施設」として建てられたわけで、かつては内部に釈迦如来像(本尊)などが置いてあったのですが、それは明治の神仏分離で大願寺に移設。その神仏分離で千畳閣は「豊国神社」となって、豊臣秀吉と加藤清正を祀る神社となりました。だから千畳閣の正式な名前は「豊国神社」です。
●千畳閣の天井には様々な奉納のものが飾ってありますが、これらは厳島神社に奉納されたもの。
●釈迦如来(シャカニョライ)・阿難尊者(アナソンジャ)・迦葉尊者(ショウソンジャ)の像が置いてありました。これらの仏像は現在は大願寺に移設されています。なぜ大願寺なのかというと、千畳閣がそもそも大願寺の施設だったからです。それが神仏分離で豊国神社と大願寺に分離されたわけです。
●豊国神社という名前はアチコチに見られます。
●厳島神社を下に見下ろす場所です。

千畳閣の建設の理由について

なぜこんな大きな施設を?
広い。広いということは、それだけ豊臣秀吉が権力を持っていたという意味になります。何せ、宮島だけで木材を集めることは出来ませんからね。あちこちから木材を集めるためには莫大な金が必要です。それに千畳閣の屋根はどうやら金箔の瓦だったよう(もしくはその予定だったか)。そこまでして厳島に鎮魂のための巨大な経堂を立てる意味があったのでしょうか。
なぜ秀吉は千畳閣を作ったのか?
巨大な経堂を立てることで権威を示したかった?
確かに戦国時代には宮島にはすでに人は住んでいました(どうやら鎌倉時代には移り住んでいた)。
しかし観光地となったのは江戸時代です。
人が住んでいると言っても、数は知れています。

平清盛と同様に、宮島の前を通る船に権威を示す意図もあったでしょう。千畳閣は建築途中で、軒瓦には金箔は貼り付けてあったことから、完成すればかなり豪勢な…歴史的な「これぞ桃山文化!」というような建築物になったはずです。しかし、それでも宮島に建てる意味はないでしょう。別の土地でも十分なはず。宮島が海上貿易の要所で権威を示すためにしても宮島に経堂を建てたのには別の意図があったんじゃないかと思うのです。

私は、平清盛に倣ったのではないか?と思います。

当時の歴史背景

豊臣秀吉は平家
豊臣秀吉は実は「平家」なのです。
そんなわけないんですけど、まぁ、聞いてください。

豊臣秀吉は農民出身です。文字通り「何処の馬の骨かもわからない」人間です。彼は有能だったのですが、その出自にずっとコンプレックスを持っていました。だから、どうしても「権威のある家柄」になりたくて、ある日、足利義昭(室町幕府15代最後の将軍)に養子にしてくれるように頼んだのです。
名字と氏姓
「足利」は「名字」です。「氏姓」とは違います。氏姓と名字というのは違っていて、例えば、非常に有名な家で「山田さん」がいたとして、その子孫が枝分かれして大量に増えて全国に散った場合、「山田」と言っても、どこの山田さんか分かりませんよね。そこで、山田は山田でも「どこ」の「山田」か?というのが重要になります。その「どこ」が名字なんです。足利義昭の名字は「足利」なんですが、では氏姓はなんというか?というと「源」なんです。つまり足利義昭は「足利が出身の」「源氏」の「義昭くん」なんですね。そして「源」という「氏姓」は、元をたどれば天皇の皇子で、どうにも天皇になれそうにない人が、「氏名」をもらって「人間」になった「家」の名前なんです。「平家」も同じです。つまり足利というのは天皇の子孫なんです。これはすごい家柄ですよ。
そういった訳で、秀吉は養子にして欲しいと申し出をした。
●戦国時代には「苗字」という言葉はありません。
●苗字と名字は同じように使いますが、苗字はどちらかというと血統を表し、氏姓に近い意味があります。
●名字は名田という管轄している領地を意味する言葉から来た言葉です。


で、足利義昭は豊臣秀吉の養子の申し出をどうしたのかというと「断った」のです。

豊臣秀吉は困りました。
そこで今度は平家の血を引く近衛家に養子を申し出て、近衛家の養子になっています。

平氏か源氏じゃないと役職に就けない

家柄にこだわる理由
ここまで豊臣秀吉が「家柄」にこだわるのはもう一つ理由がありました。
関白や征夷大将軍になるためには「家柄」が大事だったのです。
家柄…ようは「源氏か?平家か?」どちらかの家柄が必要ってことです。
まぁ、そりゃ農民出身であることが知れ渡っている秀吉じゃダメですよね。そこで「近衛家の秀吉」となって、家柄をゲット。関白に上り詰めることになります。農民から実質、国内最高位へ。まさに戦国ドリームですよ。
●ちなみに織田信長は朝廷から「関白か、征夷大将軍か、太政大臣かになってくれないかな?」と頼まれています。織田信長は平家なんですね。だから別に養子に入らなくても、任官できるんです。ただし信長は「現実主義」で「非権威主義」ですから、任官を断ってます。ここいら辺がまた凄い。
●徳川家は源氏と言い張っていましたから、征夷大将軍に任命されましたが、本当のところは源氏とは縁もゆかりもありません(家系図を購入して言い張っています)。大事なのは「そういう設定」かどうか?なんです。

武士とは?

源氏と平家
日本では武士ってのがそもそも「平家」と「源氏」なんです。天皇家の中から平家と源氏が出て、それが武士として活動したからです。そう考えると、公家貴族が中心の平安時代が終わっても、鎌倉幕府(源氏・執権北条氏も実は平家の武士)・室町幕府(足利源氏)は、実際には「天皇の子孫が運営する政府」だったんです。その流れがあるので、日本の戦国時代の武将はみんな「俺は源氏」「俺は平家」って主張していました。もちろん、ほとんどがデタラメ、もしくは根拠がないんです。でも、そういうことじゃなくて、日本では「武士=源氏か平家」なんです。
1586年太政大臣 1587年千畳閣の建設
そういう社会ですから、農民出身の豊臣秀吉はこのままじゃ大きな役職に就けないだけじゃなくて、武士としても何だか半人前。親方様である織田信長はそんなことは「どーでもいいわ」って気にしませんが、そこは相手の立場に立って考える気配りの天才の秀吉。そういう訳には行かず、困って、足利氏や近衛氏への養子申し出ということになるんです。農民出身ってのがバレてなかったら問題なかったんですけどねぇ。それで晴れて1585年に平家の仲間入りして関白となり、1586年に清盛と同じ太政大臣なった秀吉が、1587年に建築したのが千畳閣です。

平清盛の厳島神社を見下ろす千畳閣

その千畳閣は平家の代表格の平清盛が建てた厳島神社のすぐ近く。
偶然ではないでしょう。
そもそも宮島に立てる必然性なんて無いんです。
しかも、こんな「厳島神社を見下ろす」場所に。

平家で最も出世し、武士でありながら太政大臣で従一位となった平清盛。のちに平家は滅亡へと追い詰められますが、清盛は歴史的大人物です。豊臣秀吉としては千畳敷を建築することで「平家の一員」として「平清盛と並んだ」と言いたかった。

いや、もしかしたら、厳島神社を見下ろして、平清盛を超えた!
と言いたかったのかもしれません。

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