柱の傷としゃもじ(千畳閣)

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傷だらけの柱

千畳閣は豊臣秀吉が1587年に建てた戦没者のためのお経を上げる堂のこと。つまりそもそもは「寺」の一部でした。それが明治の神仏分離で「豊国神社」となりました。その際に千畳閣の中にあった仏像は大願寺へと移設。現在に至ります。

その千畳閣の柱を見てください。

見るも無残な状態。傷だらけです。
どうしてこんなことになっちゃっているんでしょうか。

しゃもじと千畳閣

明治以降、日本は徐々に戦争に関わっていくことになります。その時…日清日露戦争の頃から、兵士として出征する人たちが、「しゃもじ」をこの千畳閣の柱に打ち付けて行ったのです。その時の様子が絵葉書などで残っています。柱に対して本当に山盛りなんです。

しゃもじは勝利の縁起物
なぜ「しゃもじ」か?

しゃもじはご飯をすくうものですよね。
だから「飯とる」
これを「敵を召し取る」と掛けて縁起を担いだのです。ダジャレですわな。それで戦争に出向く兵士たちは、しゃもじを奉納していたんです。「勝利に特化」した絵馬みたいなものですね。これが日清日露戦争の頃に大ブームになりました。

現在でもカープの応援にしゃもじを使うのはこの縁起が原因なんですが、そもそもは戦争に出征する人たちの風習なんですよ。この話ってあんまりしないんですよね。やっぱ戦争に関わるから、軽いタブーになってるんでしょうね。

戦争としゃもじ、最後の家族旅行

しゃもじを千畳閣に奉納する意味
ところで千畳閣は豊臣秀吉が戦没者のために建てた経堂なんです。この戦没者というのは当然、戦国時代に亡くなった人たちという意味です。その千畳閣に、明治、出征する兵士が「敵を召し取る」しゃもじを奉納するってのは、ちょっと感慨深いものがあると思います。はっきりとそうは言わなくても「死」を連想しませんか? はっきり言ってしまえば彼らは「死を覚悟」しに千畳閣にやってきたのでしょう。
死ぬかもしれない戦争に出征する前。
日本三景の宮島に行く。
家族との最後の思い出になるかもしれない。
世界でも指折りの木製海上神殿の厳島神社
重厚な赤い鳥居を見上げる。
町家通りを歩き、美味しいものを食べる。
最後には千畳閣にしゃもじを奉納する。
そして、戦地へ。

そう考えながら、柱の傷を見てみてください。
●昭和初期には柱に打ち付けるのはやめてしまい、しゃもじは壁や柱に立てかけるようになりました。
●虫食いも多いのですが、釘の跡もしっかりと確認できます。

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