大願寺の歴史(大願寺と明治維新・廃仏毀釈)

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大願寺と千畳閣・五重塔

千畳閣五重塔はそもそもこの大願寺の施設で、一大伽藍を形成していました。
現在の千畳閣は明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で、豊国神社として独立というか分離され、五重塔はこの豊国神社という神道の施設になってしまいました。千畳閣五重塔の内部には仏像があったのですが、豊国神社になったことで、置けなくなり、大願寺に移設されています。
●千畳閣にあったのが木造釈迦如来坐像・木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像。
多宝塔本尊の薬師如来像。
●五重塔本尊の釈迦三尊像。
●以上の仏像が大願寺に移設されています。

廃仏毀釈

現在の大願寺は本堂と元禄年間(1688-1704)に建てられた山門だけしかありませんが、以前は大願寺の関係施設や寺が周囲にいくつもありました。これら(大願寺以外の寺や関係施設)は神仏分離・廃仏毀釈の流れの中で、打ち壊されたり、朽ちて無くなりました。
これらの施設にはたくさんの仏像や仏具や経典があったハズですが、もはや何があったのか、無かったのかすらサッパリ分からない状態です。
●護摩堂は2006年に140年ぶりに再建されたもの。現在の護摩堂には不動明王が祀られていますが、以前は如意論観世音菩薩が祀られていた。

本堂で勝海舟と木戸孝允・広沢真臣が会談した
幕長戦争の時に幕府側の勝海舟と、聴衆側の木戸孝允・広沢真臣が、大願寺で講話の会談を行いました。その会談を行った一室が公開されています。

明治維新と大願寺

廃仏毀釈の危機
明治維新後、廃仏毀釈の流れの中で、大願寺と大聖院は宮島の中でほぼ唯一残った寺です。大願寺と大聖院は連名で、明治政府に「廃仏毀釈の例外にしてください」と請願しています。

大願寺も大聖院も非常に歴史のある寺で、大願寺に至っては厳島神社の修造を担当していたし、厳島神社の催事には仏教関係のものも沢山あったわけで、そもそも神仏分離で切り離すことが、難しいことでした。そこを無理やりに神仏分離で引き離したら、どうなるかというと、両者とも「不完全」な宗教となってしまうわけです。
厳島神社からも仏教要素を排斥しました。厳島神社の柱が赤いのは仏教的であるとして明治の一時期、厳島神社本社と大鳥居は「白い」時期がありました。
●厳島神社には現在よりも非常に多くの神事がありましたが、仏教関係の神事は、神仏分離で無くなってしまいました(それでも仏教由来の神事は多く残っている)。

ただ、このあたりの経緯は現在でもよく分かっていません。
幕府と、天皇をトップに掲げて戦った明治政府が、神道を優遇するのは分かります。宮島という神道由来の歴史的建造物がある「神聖な島」から仏教を追い出そうとするのも、是非はともかく分かります。
ではなぜ、大願寺と大聖院は残ったのか?
なぜ、千畳閣と五重塔は豊国神社として、独立させてまで「残った」のか?
実は宮島はわからないことが多いのです。

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