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徳寿寺(トクジュジ)
宗派曹洞宗。洞雲寺の末寺。
名前金光山徳寿寺。
本尊金石地蔵菩薩
創建正徳5年(1715年)
住所広島県廿日市市宮島町上西連町741−1
金石地蔵菩薩は金色の石仏で「子授け地蔵」として有名。尼寺だった。徳寿寺のすぐ近くの新町には富くじや遊郭や店がなら歓楽街で、徳寿寺は縁切り寺だった。遊郭の女性が遊女になるにあたって縁を切るのもあるが、遊郭で遊ぶ男たちが女房との縁を切るという意味での「縁切り寺」でもあった。
名前金光山徳寿寺。
本尊金石地蔵菩薩
創建正徳5年(1715年)
住所広島県廿日市市宮島町上西連町741−1
金石地蔵菩薩は金色の石仏で「子授け地蔵」として有名。尼寺だった。徳寿寺のすぐ近くの新町には富くじや遊郭や店がなら歓楽街で、徳寿寺は縁切り寺だった。遊郭の女性が遊女になるにあたって縁を切るのもあるが、遊郭で遊ぶ男たちが女房との縁を切るという意味での「縁切り寺」でもあった。
アクセス
縁起
伝承によると、宮島にある老父婦が住んでいました。現在では老夫婦というと60代以上ですが、当時としては40歳くらいで老夫婦です。彼らには子供がいませんでした。ある夜のこと、夢の中で上川(?)の竹林で光るものを見つけた。近づいて見ると、石の地蔵尊があった。その地蔵が言うには「一心に拝めば子供を授ける」とのこと。目が覚めて見ると、夫婦は二人ともが同じ夢を見ていたことが分かる。そこで夢の通りに同じ竹林に行って見ると、そこに夢の通りに石の地蔵尊があった。夫婦が地蔵尊を供養してしばらくすると子供を身ごもった。その子供は成長すると広島藩のお抱えの力士になった。夫婦は正徳5年(1715年)に地蔵尊のお堂を建てて安置した。それからいつの間にか、石仏が「金色」となって「金石地蔵菩薩」となったと言われています。
もちろん話は創作でしょう。一寸法師とストーリーが同じです。一寸法師は住吉大社に老夫婦がお願いすると生まれるんですよね。あと竹林で見つける部分は竹取物語っぽい。広島藩のお抱え力士になるってのは、金太郎っぽい。金太郎にはそんな物語はありませんが。どうも徳寿寺にお堂を作るにあたって魅力的なドラマをこしらえたんじゃないか(もしくは徳寿寺成立にあたってドラマを作った)と個人的には思います。
ただ、「広島藩お抱え力士」はさすがに嘘ではないでしょう。そんな嘘はすぐバレる。お抱え力士は実在して宮島出身だったのではないかなと。
ただ、「広島藩お抱え力士」はさすがに嘘ではないでしょう。そんな嘘はすぐバレる。お抱え力士は実在して宮島出身だったのではないかなと。
金岡用兼
徳寿寺は、洞雲寺の和尚の「金岡用兼(キンコウヨケン)」大和尚を勧請(神を移すこと)して開山された寺。創建の地蔵のお堂を立てたのが仮に老夫婦であっても、寺として運営したのは洞雲寺だったってことでしょうね。金岡用兼は戦国時代のお坊さんで、16世紀の前半には死んでいて、その墓は徳島県徳島市の用兼が開山した丈六寺にあります。宮島には金岡用兼がらみの遺物がもう一つあって、それが金岡水。金岡水は金岡用兼が掘り出した井戸のことです。金岡用兼は戦国時代から江戸初期では宮島の英雄だったのだと思います。徳寿寺の創建にはそう言う下地があったのではないかと。
●ちなみに洞雲寺は廿日市にあり、洞雲寺には厳島合戦で死んだ陶晴賢(=陶隆房)の墓がある。
富くじ
宮島は江戸時代では「娯楽の島」でした。富くじも行われていました。徳寿寺の近くが「新町」で、新町は風俗店あり、富くじ(ギャンブル)あり、料理店、宿屋ありの歓楽街でした。ただし江戸幕府は倹約を理由に富くじは禁止していたのです。でも、黙ってやっていた。その富くじで「当たり」が出た時は、もてなした、と言われいていて、本膳・食椀が残っています。
参考大束富くじ場前
●宮島は広島藩の管理下にはあったのですが、それは「形式」で、実質、厳島神社の自治でした。富くじが行われていたのはそういう事情もあります。
雑記
●徳寿寺の住職は引退すると誓真大徳頌徳碑の土地に隠居していたらしい。
●徳寿寺の近くにはキリシタン居住地があり、教会があったという伝承がある。これは徳寿寺が新町の近くにあったから。新町には風俗店があり、穢れているとされる遊女がいた。遊女やキリシタン居住地が許されたのは新町が厳島神社の領域の外だから。
●徳寿寺の近くにはキリシタン居住地があり、教会があったという伝承がある。これは徳寿寺が新町の近くにあったから。新町には風俗店があり、穢れているとされる遊女がいた。遊女やキリシタン居住地が許されたのは新町が厳島神社の領域の外だから。
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