大束富くじ場前

MENU
TOP >> 大束富くじ場前宮島 おすすめ度☆★★★★ ブログネタ 江戸時代
スポンサードリンク

大束富くじ場前

まとめ
●江戸時代まで富くじを販売していた場所。
●大束というのは薪の束のことで、宮島の特産品。
●江戸時代に富くじは禁止されていたが、広島藩が運営していて大きな収入になるので、大束を販売するという名目で行っていた。
●宮島は娯楽の島だった。
●明治になると富くじはやめた。

宮島は娯楽の島

宮島は江戸時代、娯楽の島でした。

そもそも江戸時代ってのは庶民が娯楽に興じる時代でした。この時代に「旅」が流行して、全国に「観光業」が生まれました。宮島には芝居小屋があり、歌舞伎の演目も催されました。今でこそ歌舞伎っていうと伝統芸能でマニアックなものでお金が掛かるものという印象がありますが、歌舞伎は今で言う所の大衆演劇のようなもので、超庶民派娯楽でした。猿回しも来ていました。どうやらその猿が宮島で野生化したみたいなんです。それに当時は新町は風俗街だったんです。

宮島と富くじ

とにかく宮島は娯楽の島でした。
その中で「富くじ」というのもありました。
宝くじよりはかなりギャンブル性の高いものです。

実は最近まで広島市内の祭(圓隆寺のとうかさん)では「富くじ」をやっていたんですが、ついに2001年に警察の指導が入って中止になりました。
中止になってブチ切れた圓隆寺の神主が「もう祭りは中止だ!」みたいなことを言っていましたが、その後もちゃんと祭りはやってますね。よかったよかった。

富くじって歴史が長いものなんですから、やめないでいいのに…と突っ込む人もいました。でも、法律ですからねぇ。
実は江戸時代にも「富くじは禁止」されています。

江戸時代に幕府は倹約しなさい!って全国に通達していて富くじを禁止しています。しかし富くじは広島藩に取っても儲けになりますし、庶民の楽しみでもありますから、そう簡単に手放すわけにはいかない。そこで宮島に生えている木を伐採して「薪を売る」という形式で、ひっそりというか隠れて富くじを行うことにしました。その薪の束のことを「大束」と言いました。それを売っていた場所がこの「大束富くじ場」なんですね。

当時、宮島の木材は人気で、薪にしていました。だから、目くらましにはピッタリだったんじゃないかと。現代のパチンコの景品交換と同じですね。やってることは昔から変わんないですねぇ。
●ちなみに「大束」は島外に持ち出してはいけないことになっていました(本当に薪として人気だったのだろうか??)。
●一方で宮島の薪は、人気の商品で島外に販売されていました。持ち出してはいけないのは富くじの大束としての薪です。

現在は富くじ場なんてありませんから、ただ石の碑が建っているだけで、周囲は普通の住宅です。写真を撮っていると、宮島の住民のおばさんが訝しげに見ていました。本当に有名でもなんでもないものですからね。

なぜ宮島で富くじが?

なぜ宮島で富くじが開催されたのか?広島藩が城下で行うのは、はばかれるとしても宮島である必要はないでしょう。別の土地でもいいじゃないですか?

おそらく宮島が「異世界」だからです。

宮島は異世界だった…というか宮島という聖地を理由にある程度の「自治独立」が宮島には認められていました。宮島の主は「厳島神社の神」つまり「伊都岐島大明神」であって、広島藩ではないのです。広島藩から派遣された奉行であっても、厳島神社にかなり気を使っていたくらいです。
だから宮島で富くじが行われた。おそらく宮島に歓楽街(=風俗街)が17世紀に移設されたのも同様の事情があったのだと思われます。


スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集