御幸石(ミユキイシ)…宮島・弥山の観光スポット

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御幸石

御幸石(ミユキイシ)
滝宮神社へと登る石段の左にある石。滝宮神社大聖院のさらに上にある神社。高倉上皇は平清盛と宮島にきたことがありまして、その時に滝宮神社に行き、白糸の滝を見た。その時に御輿(ミコシ)を置いたのがこの石。
アクセス
大聖院の入り口から白糸川を登る道を上がると白糸の滝瀧不動堂・御幸石があります。軽い気持ちで歩いて行ける距離ではありますが、サンダルで行くのはヤメてください。

高倉上皇とは
高倉上皇は平清盛の妻の腹違いの妹の子供にあたり、清盛から見れば、義理の甥っ子になります。また高倉上皇の妻の徳子は清盛の娘。清盛から見ると娘婿でもあるんです。
高倉上皇と徳子の間に生まれたのが安徳天皇…安徳天皇は壇ノ浦で死んだ悲劇の幼い天皇です。

高倉上皇と宮島

その高倉上皇が清盛とともに宮島に来たのは1180年。

1179年に父、後白河上皇が平清盛により武力で無理やりに院政を停止させられる(治承三年の政変)と、子である高倉天皇が政務を取りました。清盛が福原に都を移し、清盛が実質の日本の王となった、というのが現在の定説なんですが、高倉天皇は末代の賢帝と呼ばれる中々デキる人だったらしく、「平家を利用したのではないか?」と考える人もいます。
1180年の2月に息子の安徳天皇に天皇位を譲り、自らは上皇となりました。安徳天皇の母親は清盛の娘で平徳子(建礼門院)です。清盛の権力はピークを迎えます。この年の6月に福原京に遷都しました。
1181年1月には高倉上皇は病死します。つまり、この御幸石に訪れた1180年は、高倉上皇と名乗っていたほぼ唯一の1年なんです。亡くなった時に高倉上皇は21歳。彼がいかに優秀な人物で部下に慕われていたとしても、21歳の若造が百戦錬磨の清盛や後白河と渡り合えるとは思えない。しかし高倉上皇がここで亡くならなかったら、歴史はどうなっていたのやら、と思います。
そして1185年に壇ノ浦で平家が滅亡。高倉上皇の子の安徳天皇も死亡しています。ちなみに承久の乱で有名な後鳥羽天皇も高倉上皇の子供です。

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