不明門(アケズノモン)…本社裏の後園にある神しか通れない門

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不明門

まとめ
厳島神社の境内内にある。
●開けられることはない「門」。
●人が通ることはない。神だけが通る。
●江戸時代まで本地堂があった。その本地堂厳島神社本殿の間にあるのが不明門。

名前不明門(アカズノモン・フミョウモン)
建築桁行一間、梁間2間、四脚門、切妻造り、本瓦葺、丹塗り
厳島神社の本社社殿の関係では唯一の「瓦葺」。

本地仏と不明門

厳島神社の本殿の裏にはかつて「本地仏」を祀ってある「本地堂」というものがありました。本地仏ってのは何かというと、まぁ、神様の本来の姿、というものなんですね。

本地垂迹説
日本に仏教がやってきて、その仏様と従来の神様が「かち合う」ことになっちゃいました。これでは争いが起きてしまいます。日本人は争いが嫌いです。できるだけ避けたい。そこで日本人は「神様は仏様の別の形」という解釈を採用しました。本地垂跡説(ホンジスイジャクセツ)と言います。

細かく言えば、仏が神の姿を借りているということで、この説では神様より仏様の方が上って感じですね。ともかく、この本地垂跡説で神様と仏様は「同一」ということになりました。となると、神社の神様は実は仏様な訳で、神様と一緒に「本来の姿である仏」も祀るようになりました。それが「本地堂」の「本地仏」です。
●神を拝めば、仏を拝んでいることになり、仏を拝めが神を拝んだことにもなるという非常に便利な考え方です。
●不明門が厳島神社境内内で唯一の「瓦」なのは、仏教施設である本地堂との境にあったからだと思われます。

現在は明治維新の時の神仏分離・廃物毀釈で本地堂は無くなっていますが、江戸時代まではあったんですね。それで本地堂と神社の本殿の間にあったのが「不明門」です。不明門は文字通り「開けられることはない」門で、人が通ることはありません。通るのは神だけです。

不明門を間に挟んで12世紀に本地仏だった「観音菩薩」と、厳島神社で祀られていた「伊都岐島大明神」が背中合わせになっていました。本殿から見えるのは「伊都岐島大明神」で不明門の向こうに本地堂があって観音菩薩が居たのです。まさに本地垂跡説を「形」にしたようなものです。
●現在、厳島神社に祀ってある主祀神は宗像三女神です。江戸時代まで本地堂に祀られていたのは十一面観音菩薩像です。

不明門はなぜあるか?

不明門の意味
でも、不明門ってどういう門だろうか?と思いませんか。詳細は分かっていません。

私はおそらくこういうことじゃないかと思います。

神様ってのは形がありません。形がないから神様なんです。その神様の正体が…本地垂迹説を取れば、12世紀の厳島神社では「観音菩薩」なんですよね。で、観音菩薩ってのは釈迦と同じで「人間」なんです。
ちなみに、人間が悟りを開いて解脱したのが仏陀・如来なんですが、菩薩ってのは解脱しないで、現世にとどまってみんなを助けてくれる「人」なんです。立派な人であって、神じゃないんです。あくまで「人」。

菩薩は人なんで、神しか通れない「不明門」を通れません。ということは、門を通過して、こちら側(本殿)に存在するのは観音菩薩の「霊性」である「伊都岐島大明神」だけなのです。不明門はフィルターみたいなものです。この不明門が無ければ、厳島神社は観音菩薩の「寺」です。神社とは呼べないでしょう。厳島神社を「神社」たらしめているのが、実は不明門だ!という言い方も出来ます。ま、推測ですが・
●よく不明門は「弥山から神が降りてくる時に通る門」という説明がありますが、弥山を信仰しているのが厳島神社という設定は明治以降に「作られた」設定です。おそらく、神仏分離で仏教施設が壊されてしまうので、弥山と厳島神社を結びつけることで弥山周辺の仏教施設(弥山本堂御山神社など)を守ろうとしたんじゃないかと思います。

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