太閤の力餅

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TOP >> 太閤の力餅グルメ 千畳閣 おすすめ度☆☆☆★★
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太閤の力餅とは

●太閤力餅とは戦国時代に千畳閣を建てる際に人足に振る舞われた餅のこと。
●あんまり有名じゃない宮島のグルメ。
●現在(2019年)では千畳閣の近くの塔之岡茶屋でしか食べられない(と思う)。お店では一人一品頼まないといけない(これは単に客としてのマナーってのもある)。

塔之岡茶屋

太閤の力餅が食べられる塔之岡茶屋の場所

千畳閣と太閤力餅

1587年、豊臣秀吉は塔之岡…五重の塔の横に巨大な経堂を建てることにしました。秀吉はこの「毛利が修造した厳島神社を見下ろす」場所に自分が建てることで「毛利より豊臣がえらい」と印象付ける狙いがあったのだと言われています。
しかし、小早川隆景が豊臣に従属したことで千畳閣を建築する意味はなくなり、建築は頓挫します。その後は安国寺恵瓊がお金を集めるなどして、千畳閣の完成を目指しますが、未完成のまま、現在に至ります。
豊臣秀吉と宮島
秀吉と宮島の関係は曖昧です。上記の話では秀吉は厳島神社を「見下し」ています。宮島にとって厳島神社は特別な存在であることを考えると秀吉は宮島では逆賊という性質もあるはずです。

ところで秀吉は千畳閣を建てるに当たって材木に「宮島に生えていた木」を使ったという伝承が江戸時代に見られます。その木が非常に巨大で、影が対岸の大野まで到達したほどだとか。そんな訳ないんで、あくまで「伝承」なんですよ。ただ、福島正則能舞台を建てる時に宮島の木を使って建てたところ、島民から批判されたという敬意を考えると、この物語はもしかすると「秀吉は宮島の木を切ったクソ野郎」という意味合いかもしれない(私はそう考える方が自然に思う)。
●豊臣秀吉は千畳閣を作った。千畳閣の足元の石も組んでいる。
●千畳閣の屋根瓦は「金箔」で、これはいわば「秀吉の印」。千畳閣は秀吉がこの土地を支配しているという「証明書」になる予定だった。
●島民の秀吉に対する批判的な感情は文書からは見られない。秀吉は利益をもたらしてはいるが、不遜でもあるというプラスマイナスゼロの状態だったのではないか?と個人的には思う。

力餅とは
茶屋で食べられる餅は「餅にきな粉と砂糖をかけたもの」ですが、これがそのまま戦国時代にあったとは思えない。砂糖は貴重品ですし一般的なものじゃなかったので。ただし、似たようなものは戦国時代に振る舞われた可能性はある(砂糖じゃなくて水飴だったとか)。そもそも、この「力餅」はどう考えても「安倍川餅」。安倍川餅は徳川家康が好んだ食べ物で、砂糖が一般的になるのは江戸中期から。

なので個人的には江戸時代に庶民が観光で宮島に来ることが増えた結果として「太閤の力餅」が生まれたんだと思っています。秀吉は江戸時代の後期になると「農民から日本のトップに上り詰めたスーパーヒーロー」になっているから。つまり、人気キャラ(=秀吉)にちなんだお菓子が「太閤力餅」だろうと。

そう考えると歴史ロマンはないかもしれないけど、観光ビジネスとしてかなり深いものがあると思う。この時代からシタタカじゃないですか。

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