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広島の牡蠣
牡蠣は海のミルクと言われる栄養豊富な貝。
日本では天武天皇の時代(7世紀)から肉食を禁止されていましたから、伝統的に肉食はご法度。隠れては食べていたようですが、それでも体裁の悪いことでした。となるとたんぱく質が不足します。人間の体から水分を抜くとほとんど「たんぱく質」です。魚や大豆では、不足気味になります。
「広島の牡蠣」の素晴らしいところは、そのたんぱく質不足を補ったこと。かなり早い段階から養殖をしていました(室町時代とも)。この安定して供給される牡蠣が広島の地域のたんぱく質を支えていたわけです。
広島の牡蠣は歴史的に見ても重要な存在です。
日本では天武天皇の時代(7世紀)から肉食を禁止されていましたから、伝統的に肉食はご法度。隠れては食べていたようですが、それでも体裁の悪いことでした。となるとたんぱく質が不足します。人間の体から水分を抜くとほとんど「たんぱく質」です。魚や大豆では、不足気味になります。
「広島の牡蠣」の素晴らしいところは、そのたんぱく質不足を補ったこと。かなり早い段階から養殖をしていました(室町時代とも)。この安定して供給される牡蠣が広島の地域のたんぱく質を支えていたわけです。
広島の牡蠣は歴史的に見ても重要な存在です。
江戸時代には牡蠣を大阪に出荷
広島の牡蠣が全国的に知られるようになったのは江戸時代の中期。なぜ、この頃に有名になったのかというと、養殖の手法の工夫によって、牡蠣の生産量が地域の消費量を上回り、大阪へと出荷されるようになったためなんです。
●江戸時代にひび建養殖法ができて生産量が増え、大阪や九州に出荷しだしました。昭和20年以降に牡蠣イカダでの養殖が始まると更に爆発的に生産量が増え、全国への出荷が始まります。つまり、広島の牡蠣は「食いきれないくらいに、できすぎた牡蠣、どうするか?」というとこからビジネスが始まってるんです。
●大阪や九州に牡蠣を持って行き、その場で牡蠣を剥いて、調理して販売もした。
●しかし、まぁ、現在でもカキの食中毒って問題になるのに江戸時代の、電気も冷蔵庫もエンジンもない時代に、船で大阪へ生物を出荷するって…
●晩秋に広島を出発し、大阪で販売して、2月に広島に帰るというサイクルだった。
●牡蠣は海に浸けたまま、船で引っ張って移動したのではないかと思いますが、詳細は不明。
●当時の広島藩の殿様は浅野光晟(浅野長晟の子)。
●大阪への出荷には広島藩のバックアップがあったと思われます。
●大阪や九州に牡蠣を持って行き、その場で牡蠣を剥いて、調理して販売もした。
●しかし、まぁ、現在でもカキの食中毒って問題になるのに江戸時代の、電気も冷蔵庫もエンジンもない時代に、船で大阪へ生物を出荷するって…
●晩秋に広島を出発し、大阪で販売して、2月に広島に帰るというサイクルだった。
●牡蠣は海に浸けたまま、船で引っ張って移動したのではないかと思いますが、詳細は不明。
●当時の広島藩の殿様は浅野光晟(浅野長晟の子)。
●大阪への出荷には広島藩のバックアップがあったと思われます。
広島では牡蠣は縄文時代から食されている
牡蠣の食用は縄文時代から
広島は瀬戸内海があり、瀬戸内海に川が流れ込みます。その川に栄養分が含まれていることがカキが育つ理由です。また瀬戸内海が内陸なのも牡蠣の繁殖には適しています。
そこでこの牡蠣を広島周辺では縄文時代から食用にしていたらしく、貝塚も発見されています。当然、この時代では自然に繁殖したものを食べていたわけです。
その後、室町時代に養殖が始まったのではないか?とされています。
広島は瀬戸内海があり、瀬戸内海に川が流れ込みます。その川に栄養分が含まれていることがカキが育つ理由です。また瀬戸内海が内陸なのも牡蠣の繁殖には適しています。
そこでこの牡蠣を広島周辺では縄文時代から食用にしていたらしく、貝塚も発見されています。当然、この時代では自然に繁殖したものを食べていたわけです。
その後、室町時代に養殖が始まったのではないか?とされています。
●大正13年に草津村役場が発行した「草津案内」に「天文年間(1532~1555年)安芸国において養殖の法を発明せり」とあります。
●大正13年に役場が発行した文言が、果たしてどこからの情報なのか?は、分かりません。
●つまり、詳細は当てにならない、ってことです。
●ただ、江戸時代には大阪に出荷するほどに生産量があるってことは、それなりに技術の蓄積がないとありえないことで、室町時代の後期に養殖法がある程度確立していないと無理。室町時代の後期に養殖が始まるのはむしろ妥当。
●大正13年に役場が発行した文言が、果たしてどこからの情報なのか?は、分かりません。
●つまり、詳細は当てにならない、ってことです。
●ただ、江戸時代には大阪に出荷するほどに生産量があるってことは、それなりに技術の蓄積がないとありえないことで、室町時代の後期に養殖法がある程度確立していないと無理。室町時代の後期に養殖が始まるのはむしろ妥当。
牡蠣の養殖法
石蒔養殖
干潟の浅瀬に石を置き、そこにカキを付着させる養殖法。カキが繁殖しやすい環境を作ってやって、そこで育つのをひたすら待つという方法。
干潟の浅瀬に石を置き、そこにカキを付着させる養殖法。カキが繁殖しやすい環境を作ってやって、そこで育つのをひたすら待つという方法。
地蒔養殖
干潟の砂に、牡蠣を置いて待つという方法。
干潟の砂に、牡蠣を置いて待つという方法。
ひび建養殖法
石蒔養殖・地蒔養殖という原始的な養殖法から、1673年に小林五郎左衛門(小西屋五郎八)が始めたのがひび建養殖法です。このひび建養殖法は、干潟に細い穴を開けて、そこに竹を挿し、竹にカキを付着させて養殖するという方法で、生産量が爆発的に上がりました。その結果が、大阪へのカキの出荷へと繋がるのです。
石蒔養殖・地蒔養殖という原始的な養殖法から、1673年に小林五郎左衛門(小西屋五郎八)が始めたのがひび建養殖法です。このひび建養殖法は、干潟に細い穴を開けて、そこに竹を挿し、竹にカキを付着させて養殖するという方法で、生産量が爆発的に上がりました。その結果が、大阪へのカキの出荷へと繋がるのです。
杭打ち垂下法
ひび建養殖法は、優れた養殖法だったのですが、欠点がありました。大量に養殖しても、竹を伝ってヒトデが昇って来て牡蠣を食べちゃうんです。そこで、地面に2本の杭を打ち込んで、それを紐で結び、そこから紐を垂らして、そこに牡蠣を付着させる杭打ち垂下法が始まりました。
でもまぁ、杭が海底に刺さっているわけですから、そこからヒトデは登ってきます。ひび建養殖法よりは頻度は減ったでしょうが。
ひび建養殖法は、優れた養殖法だったのですが、欠点がありました。大量に養殖しても、竹を伝ってヒトデが昇って来て牡蠣を食べちゃうんです。そこで、地面に2本の杭を打ち込んで、それを紐で結び、そこから紐を垂らして、そこに牡蠣を付着させる杭打ち垂下法が始まりました。
でもまぁ、杭が海底に刺さっているわけですから、そこからヒトデは登ってきます。ひび建養殖法よりは頻度は減ったでしょうが。
牡蠣イカダ養殖法
杭打ち垂下法を更に発展させたのが「牡蠣イカダ」です。竹で編んだイカダから紐を下ろして、そこに牡蠣を付着させます。これなら、ヒトデが昇ってくることは絶対にありません。海底と接していませんから、登りようがありません。
それに、牡蠣イカダを簡単に移動させることが出来ます。
また、これまでの手法は「干潟」かその周辺でしか行えなかったのですが、牡蠣イカダでは、沖合での養殖が可能になり、さらに爆発的に生産量が増えることになりました。
杭打ち垂下法を更に発展させたのが「牡蠣イカダ」です。竹で編んだイカダから紐を下ろして、そこに牡蠣を付着させます。これなら、ヒトデが昇ってくることは絶対にありません。海底と接していませんから、登りようがありません。
それに、牡蠣イカダを簡単に移動させることが出来ます。
また、これまでの手法は「干潟」かその周辺でしか行えなかったのですが、牡蠣イカダでは、沖合での養殖が可能になり、さらに爆発的に生産量が増えることになりました。
牡蠣とカキ船
カキ船
この広島から大阪や九州へと、牡蠣を運搬する船を「カキ船」と呼びました。
最初はカキ船は「牡蠣を運搬するだけ」だったのですが、徐々にカキ船を川岸に付けて、直接、カキを販売する業者も出てきました。
明治になると、カキ船はエンジンの付いた船に「運搬」の役割を奪われました。
そこでカキ船は「牡蠣料理を提供する場」に活路を見出していきます。
それが現在の「カキ船」です。
牡蠣料理を提供するカキ船として有名なのが「かなわ」です。
この広島から大阪や九州へと、牡蠣を運搬する船を「カキ船」と呼びました。
最初はカキ船は「牡蠣を運搬するだけ」だったのですが、徐々にカキ船を川岸に付けて、直接、カキを販売する業者も出てきました。
明治になると、カキ船はエンジンの付いた船に「運搬」の役割を奪われました。
そこでカキ船は「牡蠣料理を提供する場」に活路を見出していきます。
それが現在の「カキ船」です。
牡蠣料理を提供するカキ船として有名なのが「かなわ」です。
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