平家納経の年表・平家納経は誰が納めたか?

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平家納経の年表

平治元年(1160年)12月から永暦元年(1160年)3月まで 平治の乱
永暦元年(1160年)8月5日 清盛が厳島神社に参詣(一回目)。
長寛2年(1164年)4月10日 清盛の娘の盛子が藤原基実と結婚。
長寛2年(1164年)6月2日 平家納経の法師功徳品が完成した日付(清盛の書写)
長寛2年(1164年)9月1日 平家納経の厳王品が完成した日付(清盛の書写)
長寛2年(1164年)9月?日 清盛願文の日付(平家納経が収められた?)
長寛2年(1165年)12月17日 蓮華王院が完成(清盛が後白河上皇に作った)
永万2年(1166年)7月 後白河院政の復活。
仁安元年(1166年)11月11日 清盛が内大臣になる。
仁安元年(1166年)11月18日 櫛筆文書の日付。
仁安2年(1167年)2月 清盛が太政大臣になる。平家納経の般若心経が書写される。
仁安2年(1167年)2月23日 清盛が厳島神社に参詣(二回目)。

平家納経は一度に納められていない

平家納経は33巻からなるもので30巻が法華経。後は般若心教と阿弥陀経が1巻と、平清盛の願文1巻の計33巻。33巻になっているのは、厳島神社の本地仏である観音菩薩が33面あるという設定があるから。ただし厳島神社の観音像は11面。

どうも法華経30巻が最初に完成。その後、般若心境と阿弥陀経が作られた。どれもが「解脱して苦しみから解き放たれる」ためのお経ですから(ま、お経はみんなそれが目的)、これをセットにするのは無茶ではないですが、わざわざ33巻に揃えたのは何か意図があると思われますが、ハッキリとは分かってません。
ただ、一度に33巻が作られたのではなく、30巻が出来て、まるで数を合わせるように3巻が追加されたのだと思われます。
●つまり法華経を収めた人物と、33巻を揃えた人物は別かもしれない。
●それでも法華経のうち幾つかは清盛が書いている。

清盛は神社に参詣していない

年表を見ると分かると思うのですが、実は清盛が参詣したのは1164年の後は1167年です。そのどちらかで清盛が平家納経を納めたとされますが、この程度の参詣であれだけの歴史的超高級美術品を納めるのは割に合わないというか、非現実的ではないでしょうか?

どうも平家納経を作り、納めたのは別の人物ではないか?というのが最近の説です。

平頼盛

どうやら法華経は、清盛から見て義理の母で、弟の平頼盛から見て実の母の「池禅尼」のためのお経のようです。法華経はそもそもが女性の解脱を描いたものですからね。池禅尼のための法華経を頼盛が作るにあたり、権力者で文人で兄である清盛も写経を手伝った。まぁ、供養の性質があったから、兄も書かないといけないというのが常識だったんでしょう。それで出来たのが素晴らしい美術品である法華経。歴史に残る素晴らしいものだった。これを厳島神社に納めた。
●33巻の一つ、願文というのは神に「これこれですから、お願いしますね」という手紙です。
●仏教は男尊女卑。釈迦が悟りを開こうとするときに悪魔が化けた女性が誘惑したというように仏教では女性は「悪」とされる。女犯が禁じられているのはそのため。ちなみに尼は現世で悟りを開くことはできず、まず男に生まれ変わってから、解脱するというのが仏教の設定。法華経はその過程をすっ飛ばして女性が一気に解脱するお経で、女性が一気に解脱するってことは、まぁ、誰でも解脱できるってことで、非常に有難いお経ということになる。

願文には厳島神社の神様は「解脱を導く」という意味の言葉が見られます。それで納めたのでしょうが、では誰が納めたのか?というと、頼盛が筋でしょう。

納めたのは頼盛だったと思います。ただし平家の頭領はあくまで清盛ですから、頼盛が主になって作り、納めたとしても対外的には「平清盛が納めた」ということになっていたということもあるかもしれません。

平家納経の推理

池禅尼が死亡し、その供養のために頼盛は法華経の写経を始めた。そのお経にはお金をかけて非常に素晴らしい挿絵を入れた。それだけ池禅尼はすごい人物だった。池禅尼な単なる後妻ではなく、死んだ夫の平忠盛の権力を受け継いでいた。清盛は当時、平家の頭領ではあったが、その権力基盤は必ずしも強くはなかった。池禅尼の強い権力…特に武力は頼盛に受け継がれた。つまり、頼盛の力の根本は母、池禅尼にあった。頼盛は池禅尼の供養をするために法華経をお金をかけて作った。その写経には清盛も参加したが、あくまで主体となったのは頼盛だった。

それを頼盛が厳島神社に納めた。

頼盛は厳島神社と深い関係があり、何度も参詣していた。
そして清盛が死亡、壇ノ浦の合戦後に平家はほぼ滅亡。
しかし頼盛は死んでない。
頼盛は清盛とは距離をとっていて合戦には参加していない。
それどころか頼盛は鎌倉の源頼朝に厚遇すらされた。有名な話に、源頼朝が平治の乱で平家に捕まった際に「無くした子供に似ているから」と助命を願ったのが生前の池禅尼だったというのがあり、それが縁で源頼朝は頼盛を「父のように」扱ったと言います。頼盛の晩年は寂しい余生で誰にも気を止められなかったとされるが、少なくとも鎌倉幕府に殺されることはなかった。
平家の怨霊
壇ノ浦の合戦の後、京都を大地震が襲います。
そして後白河上皇のために清盛が作った蓮華王院三十三間堂が倒壊します。これは恐ろしい、世間も後白河上皇も、頼盛も「清盛の祟り」と恐れました。頼盛は厳島神社に今社という清盛を鎮魂する神社を建て、毎年鎮魂の儀式をしました。それだけでは無く、「平家納経を清盛の手柄に付け替えた」のではないかと私は考えています。
●平家物語などで描かれる清盛像は非常に傲慢で見栄っ張りで厚かましいのですが、清盛は後白河上皇と二条天皇の両方とつながりを持つなど、かなり自制がきき、人間関係をうまくこなす人物だったよう。平家物語で描かれた人物像は後世の創作の可能性が高い。
●つまり、無実の人間の子孫である平家が後白河や頼盛の裏切りによって、ほぼ全滅した。しかも安徳天皇も死んだ。菅原道真の怨霊があれだけの災害・疫病を呼んだことを考えると、とんでもない事態になってもおかしくない。供養のために平家納経を清盛の手柄に変えた、のかもしれない。
●厳島神社を造営したのも、清盛ではないよう。しかし厳島神社の伝承では「清盛が造営した」となっている。これも手柄の付け替えではないか?

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