大内義隆の同性愛エピソードまとめ

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大内義隆の衆道(同性愛)

まとめ
●陶隆房(大内義隆記の記述)
●大内晴持(経緯からの推測)
●杉正重
●毛利隆元(毛利隆元公山口逗留日記に優雅な暮らしぶり)
●小早川隆景(陰徳太平記の記述)
●清ノ四郎(陰徳太平記の記述)
●安富源内(陰徳太平記の記述)
●相良武任(?)
●冷泉隆豊(?)
●フランシスコザビエルに衆道(同性愛)を叱責された。

陶隆房

大内義隆は陶隆房によって大寧寺の変で自害に追い込まれます。その死亡後に菩提寺の竜福寺の僧侶よって書かれたのが大内義隆記です。この大内義隆記にはこんなことが書いてあります。
現代語訳
陶尾張守(=陶隆房)がまだ梧楼(ゴロウ=五郎)と呼ばれていた若い頃の話です。大内義隆には恋慕の心があり、富田若山城に通っていました。松ヶ崎の寺で二人は会ったのですが、夏の夜の夜明け前に時間がないので黙って帰ってしまいました。それがとても残念に思った大内義隆は翌朝に歌を読みました。
もぬけなり とせめて残ふば空蝉の 世の習ひ共思ひなすべし
その歌を翌日に富田若山城に届けました。

解説
大内義隆と陶隆房は14歳差。陶隆房がまだ幼名だったのですから12歳から15歳くらいです。ってことは大内義隆は20代後半。典型的な衆道のカップルです。大内義隆の居城は山口県山口市で、富田若山城(=周南市)までは40キロ以上ある。二人はその若山城と山口との間にあっただろう松ヶ崎の寺で逢瀬を重ねていた。忙しい身の義隆は夜が開ける前に帰ることになった。眠ったままの隆房をそのままに帰ったが、それが惜しくなり、翌日、歌を富田若山城まで届けた。愛が深い。
●大内義隆の父、大内義興は陶隆房の兄の陶義清と衆道関係にありました。しかし陶義清は「武士は武勲によって仕えるもの」と衆道関係を「公然と」批判。周囲にハッキリと言っていたよう。その結果、父親の陶興房に殺されてしまいます。
●陶隆房が大内義隆と衆道関係にすんなりと入っていったのは兄の陶義清の経緯があったのかもしれない。
●ちなみに陶義清は美少年だった言われている。陶隆房は美少年という記述はないが、美少年だったのだろうと思われる(その方が面白いし)。

大寧寺の変
陶隆房はその後、西国一の侍大将とまで呼ばれる武将になります。陶隆房の出世は実力もあるのですが、大内義隆との経緯がなかったとは言い切れないでしょう。しかし、その後は大内義隆は養子の大内晴持の死亡もあって、大内義隆が戦争嫌いになり、武断派の陶隆房は冷遇されるようになります。
そこで陶隆房は同調する大内家臣を集めて謀反を起こします。正確には謀反というよりはクーデターですね。大内義隆は自殺します。
大内義隆はかつて愛した男に「殺された」男ということになります。この辺りの話は腐女子+歴女がよく取り上げる話ですが、確かにいろんな推測の成り立つ興味深い話なんですよね。

大内晴持

大内義隆の愛人?養子?
大内義隆は男好きではあるんですが嫁もいました。しかし男の方がどうも好きだった様子で、正妻だった万里小路秀房の娘の貞子の間には子供はできず、離縁します。
●貞子とは1524年に結婚。
●貞子の件に関しては彼女の気が強過ぎたからとも。ただ、名門公家万里の出身の気の強い嫁と、大名として自分を敬ってくれる美少年とどっちがいいか?という二択になる時点で普通とは言えない。

大内晴持は土佐一条家に生まれた子で一条恒持と名乗っていた。1524年生まれで3歳で大内家に養子となります。晴持の母親は大内義隆の姉、とも言われますが、『大内義隆記』異本では「伏見宮の姫宮」。『房顕記』には「伏見殿ご息女、一条殿のつけ子」とあるように実はハッキリしない。普通ならば、「姉の子」じゃないのに養子にするわけないじゃん!で済むのですが、そこが大内義隆のすごいところ。大内義隆は京文化大好きで公家ラブです。貞子は気が強かったからうまくいかなかったけど、基本的に公家大好きです。そこに美少年好き。公家の血筋を引いた大内晴持を溺愛していたのを見ると、「姉の子」という設定の方が後付けの可能性すらありうる。

第一次月山富田城の戦いで大内晴持が死亡すると大内義隆は戦争する意欲が減退してしまう。そこいらへんの様子から、「大内義隆と大内晴持は衆道関係」というのは定説。もちろん証拠はないです。状況証拠です。

毛利隆元

天文6年(1537年)に14歳で大内の元に人質として送られます。毛利は当時はまだ一地域の領主で大内の庇護下にあった毛利が人質を出すのは当然のこと。しかし、大内はかなり毛利隆元を「優遇」したと言います。その理由に関してはどこにも書いていないんですが、「好みの少年だった」から、という可能性は高い。
この毛利隆元も大内義隆の愛人だった!ってのは半ば「定説」となっていますが、文書を読む限り断言したものはないです。ただし、まぁ、十分あるかな。とも思う。
●毛利隆元の「隆」は大内義隆の「隆」です。

厳島合戦
陶隆房が大寧寺の変で大内義隆を死に追い込むと、陶との対決を毛利隆元がかなり強めに毛利元就に進言します。割と穏やかな人物の隆元が強硬だったのは「大内義隆との愛」があったのかもしれない。
まー、かなり人質時代によくしてもらったから!で説明のつくことなんですが。

小早川隆景

毛利隆元の弟の小早川隆景も大内義隆と衆道関係にあったという記述が「陰徳太平記」にあります。そこでは
ざっくりと現代語訳
毛利元就親子は山口に滞留しました。おの時、小早川隆景は16歳。とんでもない美少年で大内義隆の寵愛は浅からず、足利義晴に官位を吹挙されて、屋形号を貰いました。

美少年だから大内義隆の目に止まって、愛されて、将軍に官位をもらえるように計らって、「隆」という字をもらえたというのですね。うーん、大内義隆は美少年だったら誰でもいいのかよ!って感じがしますね。
小早川隆景には実子がいない
小早川隆景は妻はいるのですが、実子がいません。妻との関係は悪い、という文書と、良いという文書があって、どちらとも言えないのですが、少年期に大内義隆に仕込まれてガチガチのホモになったから!と考える人もいます。
これ、本当かな?
実は大内義隆と小早川隆景の同性愛の根拠は基本的には陰徳太平記の記述くらいなんですよね。この陰徳太平記ってのが江戸時代に成立した「史実を元にした歴史ロマン小説」って感じで、当てにしていいのかかなり怪しい。それに出版に際して毛利がチェックしているのです。
●陰徳太平記は毛利を美化し、大内を貶めているのではないか?と個人的には思うのです。

小早川隆景の衆道疑惑も根拠は薄いんですよね。

相良武任・冷泉隆豊

相良武任が大内義隆の寵愛を?
そりゃないでしょ

大内義隆が養子の大内晴持を失ってから、戦争への意欲を失います。武断派…戦国武将だから戦争で頑張るグループと、官僚的な文治派で勢力争いがおきます。その文治派の代表が相良武任でした。
ネットでは彼を大内義隆の新しい恋人とする向きもあるんですが、いやぁ、それはないでしょ。当時の衆道は基本的に年下の美少年との恋であって、1507年生まれの大内義隆と、1498年生まれの相良ではあり得ない。
相良の台頭は単に大内義隆の政策転換の結果でしょうね。

大内義隆の忠臣、冷泉隆豊
冷泉隆豊は陶隆房の謀反を察知し、誅殺を大内義隆に提言した人物で、大寧寺の変では、大内義隆の介錯をし、自らは腹を切って、臓物をぶちまけたという猛者。公家冷泉家の名前を名乗り、和歌の才能もあって、最後は文治派を押した義隆と最後まで共にしたのですが、基本的に武士中の武士。文治派と武断派の仲裁をしようとしていたことを考えると、本当に真面目に国のことを考えて行動していたとしか思えない。
大内義隆に最後まで付き添ったことから冷泉隆豊と大内義隆が衆道関係にあったというネットの噂は根も葉もない話ですね。数少ない忠臣だっただけです。

フランシスコザビエル

天文19年(1550年)に、イエズス会のフランシスコザビエルが大内義隆に謁見します。その時、ザビエルは山口で庶民も衆道(同性愛)にハマっているところを見て、それが主君たる大内が主導をしていることが原因として「批判」したとされます。
●大内をフランシスコザビエルが尋ねたという記述は「フランシスザビエル書簡(=ザビエルの手紙をまとめたもの)」と「ルイスフロイスの日本史」にあるが、男色に関する記述は「日本史」にしかない。

キリスト教では同性愛はダメ。殺されても文句の言えない罪です。それを日本では当たり前のように行っているんだから、開いた口が塞がらない。しかし衆道批判は「ルイスフロイスの日本史」に書かれていることで、ちょっと本当か分からない。
というのも、大内義隆が文化を重んじる人物だとしても先祖代々の大名です。そのように批判されてザビエルが殺されないものかとちょっと疑問。それに報告書を書いた人物…ルイスフロイスは上司から誇張壁のある人物だと言われているんですね。それにルイスフロイスが日本史を書き終えたのは1597年頃。50年以上経っている上に又聞き又聞きを書いているわけで、かなり「怪しい」。
●キリスト教では殉教するのが「かっこいい」ので、命の危険を賭して布教した感じをルイスフロイスは出したかったのではないか。

結論

大内義隆はガチホモとは限らない
世間では大内義隆はガチホモという結論になっているんですが、かなり怪しい。

大内義隆は実質的な最後の大内で滅亡させたアホ殿様ってことになっているんですが、大内でもっとも栄えたのは間違いなく大内義隆です。また、厳島神社の歴史を調べると厳島神社の人事に手をつけて棚守房顕社家奉行に任命して権力者にします。この人事は大内滅亡後は毛利氏、江戸時代に入ると福島正則、浅野家へと引き継がれ、江戸時代の間はずっと維持されます。つまり大内義隆の政策はのちの時代にも通じる芯を食ったものだったのです。また、大内滅亡後に吉見氏だけでなく、陶・毛利に対して反抗する集団がチラホラありました。

どー考えても大内はかなり優秀な大名だったのではないか?と思うのですね。毛利に反抗した者たちがいたことを考えても内部の評価も高かったのではないでしょうか。大内の不評は、後世に作られたものではないか?と思います。その中に衆道があったのではないかと。

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