折敷畑古戦場跡

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TOP >> 折敷畑古戦場跡おすすめ度☆★★★★ 戦国時代 厳島合戦 毛利元就 毛利隆元 大内義隆 陶隆房(陶晴賢)
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折敷畑古戦場跡

名前折敷畑古戦場跡(オリシキバタコセンジョウアト)
場所廿日市
天文23年(1554年)6月(9月とも)に折敷畑山(現在の廿日市市宮内の西部)で行われた「折敷畑の戦い」の舞台。「折敷畑の戦い」は毛利元就軍と陶隆房(=陶晴賢)軍の合戦。ただし陶隆房は参加していない。厳島合戦の前哨戦とも言われる。

古戦場跡という案内板もないので、どこから行けばいいのかもよく分からないです。

経緯

天文20年(1551年)に大内義隆が陶隆房によって自害に追い込まれ、周防の実権を陶隆房が握ります。毛利はこの時点では陶に従っていましたが、毛利元就の子供の毛利隆元は陶の不義理(=大内を裏切ったこと)を批判し、陶討伐を主張します。しかし、戦力差を理由に、この時点では毛利元就は謀反はしません。
●大内義隆と毛利隆元は衆道関係(=同性愛関係)にあった。また、大内義隆と陶隆房も衆道関係にあった。当時は衆道関係が人間関係の一つであったので、現代の価値観では計れないが、この愛憎が厳島合戦の要因だったのは間違いない。


そうしているうちに、同じく大内義隆に恩義があった石見国津和野の三本松城主・吉見正頼は陶隆房に反旗を翻します。陶は吉見を討伐しようと兵を向けます。ここで毛利元就はついに陶から離反し独立し、敵対します。そうして起きたのが「折敷畑の戦い」です。

毛利は桜尾城をすでに手中にしていまして、陶軍は桜尾城を見下ろせる折敷畑山に陣を敷きます。桜尾城は現在の「桜尾城跡・桂公園」で小高い丘です。ほんと「小高い」程度で、なるほど折敷畑山から見下ろせ…るか?? これは単純に距離を置いて布陣しただけでしょうね。

折敷畑山を毛利勢が奇襲し、合戦は毛利の勝利となります。その時、蛍の群が乱れたことで伏兵に毛利元就が気づいた!なんてお話がありますが、これはのちの時代の軍記物の創作。ただ、毛利元就を神格化しようとする考えが時代の中にあったのは間違い無いんですよね。それだけ広島は毛利を特別視していたわけです。

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