平舞台(ヒラブタイ)…高舞台の周囲の素木の板場

MENU
TOP >> 平舞台(ヒラブタイ)…高舞台の周囲…宮島 おすすめ度☆☆☆☆★ 観光地・名勝 厳島神社
スポンサードリンク

平舞台(ヒラブタイ)

建築広さ167坪
創建創建年次はハッキリとはしない。1571年にはあった。現在の平舞台を寄進したのは棚守房顕とされる。棚守が寄進したとすれば天文15年(1546年)にはあった。ただし、それ以前から、類似の設備はあった可能性はある。

厳島神社の本社・祓殿の前にある檜の素木(=色つけのない)の板の場所。高舞台を取り囲むように設置している。
平舞台は厳島神社本社祓殿・左楽房・右楽房・左門客神社・右門客神社火焼前と隣接・設置しています。

平舞台の設置の経緯

平舞台は平安時代の終わり12世紀の平清盛の時代(仁安の造営)に修造された時にはどうやら「無かった」ようです。しかし、12世紀に千僧供養(センゾウクヨウ)というイベントが厳島神社であった時に、この場所に板を渡して僧侶が座る場所を作ったと「伊都岐嶋千僧供養日記」という書物にあります。

どうやら、そんな風にしてイベントをしているうちに常設になったようですが、「いつから」あるのかははっきりしない。間違いなく存在するのは1571年の毛利元就の時代に修造した時から。
高舞台の擬宝珠に天文15年(1546年)棚守房顕の記銘があるので平舞台も1546年にすでにあったのではないかと思います。ちなみに棚守房顕は本来は舞楽担当の家柄です。

千僧供養
ところで千僧供養というのは、千人の僧侶を集めて、一斉に読経するイベントで、厳島神社では平重盛がメインとなって催したようなのですね。問題は、この「平舞台に千人のお坊さんが座れるか?」ってところです。板を貼って、完全にフラットにしたとしても、ちょっと厳しい。他の場所にも座ったのでしょうが、ね。

この辺りはハッキリ分かっていないことが多いんですよね。
●現在の厳島神社は修造を繰り返しているし、周囲の地形も土砂災害などで形状が変わっている。境内(海)の広さも、神社の形状も設備も時代とともに変化しているため、平安時代末期に「実際のどのくらいの大きさだったか」もよく分からない。
●宮島には分からないことが多い。

一遍上人絵伝

さらに鎌倉時代の一遍上人絵伝には厳島神社の絵が書いてあるのですが、現在の高舞台・平舞台とは違いますが、似たものが描かれていて、鎌倉時代には近しい形式になっていたのかもしれません。
●画像はウィキペディアから引用。

石造りの柱の基盤

平舞台の柱は石で支えています。束石(ツカイシ)と言います。この束石を赤間ヶ石(赤間石)と呼ばれています。この赤間というのは下関の地名です。赤間ヶ石は密度が濃いので、束石に適していると考えたのでしょう。この石も毛利元就が寄進したとされます。
●下関の赤間には「赤間神宮」という神社があり、赤間神宮には安徳天皇が祀られています。安徳天皇は、平清盛から見て「孫」に当たる天皇で、壇ノ浦で二位尼(=清盛の妻)とともに入水しました。赤間の石を取り入れたこととコレがどの程度関係しているのかは何とも。
●1571年の時点では毛利は山口も勢力下にしています。

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集