高舞台(タカブタイ)…本社祓殿の前・平舞台の中心にある舞楽・雅楽を演じる舞台

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高舞台(タカブタイ)

建築高欄真々正面17尺2寸(前面5.2m) 側面21尺(後面6.4m)
創建創建時期は不明(ハッキリとはしない)、少なくとも天文15年(1546年)以降はある。1680年(延宝8年)に浅野綱長によって再建。

高舞台は平舞台の中心にあるもの。平舞台より一段高く、黒漆喰の基壇に朱塗りの高欄(=手すり)があり、前後に階段があります。舞楽を神に奉納する際に晴天であれば、この高舞台で演じます。平安時代の12世紀の平清盛の修造の時には、平舞台も高舞台もなかった。

日本三大舞台

舞楽を舞う「舞台」には「日本三大舞台」というのがありまして、
厳島神社の高舞台
住吉大社(大阪)の石舞台
四天王寺(大阪)の石舞台

です。大阪の住吉大社・四天王寺のは「石」ですが、厳島神社は海上神殿の「板」の舞台ですから、厳島神社のそれが如何に「特殊」か分かります。ちなみに厳島神社の舞楽は四天王寺の舞楽を取り入れたものになっています。

観光のチェックポイント

擬宝珠
高欄(=手すり)に擬宝珠(ギボシ)という欄干につける飾りが付いています。擬宝珠は全然珍しいものではありません。

この擬宝珠に「天文15年(1546年)棚守房顕」と刻銘があります。よって1546年までには高舞台・平舞台は存在していたことになります。それ以前にあったか、なかったかはハッキリしません。
●擬宝珠はその施設が作られた経緯を書くもので、ここに「棚守房顕」と書くということは、「高舞台は棚守房顕が作った」という意味になります。

棚守房顕について

棚守房顕は戦国時代の厳島神社の神官。大内義隆・陶隆房・毛利元就の「御師」となりました。御師は宗教指導者と説明されますが、要は厳島神社の神に、大内義隆・陶隆房・毛利元就などの「進物」を届ける役割です。棚守は彼ら武将達と結びつきを強めて、ついには「厳島神社の他の神官達の給料を手配する権利」を得ます。実質的な厳島神社のボスです。この平舞台・高舞台を厳島神社の神官で、役職上は決して上ではないはずの棚守房顕が奉納したということは、彼がいかに「金回りがいい」か?という証拠になります。
●戦国時代の棚守は神主ではない。
●子孫は現在の神主だけど。

一遍上人絵伝と高舞台

一遍上人絵伝(1299年成立)の絵によると、形式・形状は全く違うが、平舞台・高舞台と思しきものが描かれている。なので、高舞台と平舞台は鎌倉時代にはすでにあった可能性もある。ただし、一遍上人絵伝の「絵」が当時の実物に基づいた(つまり、絵を描いた僧侶の円伊が実際に厳島神社にやってきて描いたのか?)のかどうかは分からない。しかし仮に伝聞で描いたとしても、このような一般的ではない建築物(厳島神社と平舞台と高舞台)があったのは常識として知られていたと考えた方が自然に思う。やはり平舞台と高舞台のようなものは既にあったのではないか?と個人的には思う。
●画像はウィキペディアから引用。

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