幸神社

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幸神社の概要

名前厳島神社末者幸神社
祭神猿田彦神(サルタヒコ神)

1800年頃までは疫病の神の「牛王」が祀られていました。その後は「幸神社(サイジンジャ・現在はサイワイジンジャと呼ばれる)」となりました。この神社の本殿の背後には陰陽石があり、これが道祖神の神体とされていて道祖神社とも言われていました。現在はパワースポットとして人気に。
まとめ
新町には遊郭があった。
●幸神社には陰陽石が祀ってある。陰陽石とは性器の形をした石のこと。
●祀っている神の猿田彦は全国的に道祖神として祀られる神。
●道祖神のことを「塞の神」と呼ぶから「幸神社」となったのだと思われる。
●道祖神は全国的に性の神様。
●江戸時代にはこの近くに金属製の鳥居(金鳥居)があった。その鳥居より厳島神社側には遊女が入れなかった。

牛王
ちなみに牛王というのは、牛頭天王(ゴズテンノウ)のこと。この牛頭天王はインドの神様(ゴーマヤグリーヴァデーヴァラージャ)が仏教に取り入れられた名前です。日本では疫病というのは「外の世界」からやってくるもので、外国の神様である牛頭天王は「疫病の神」として扱われるようになりました。
疫病の神というと感じが悪いのですが、日本では「疫病の神」というのは「疫病を司る」という意味があり、それはつまり、疫病を広めるも、広めないも牛頭天王の気分次第ということで、この牛王を祀り、崇めることで機嫌をとって、疫病の蔓延を防ごうとしているのです。

サイワイじゃなくてサイ

幸神社は、本来は「サイ神社」なのですが、最近は「サイワイ」と読むようになっています。ところで「サイ」というのは「障の神」「塞の神」という文字が書かれるのが普通です。では「サイ」の神ってのは元々は何かというと「道祖神」です。

じゃー道祖神って何よ?
というとこれがよくわからないんですね。いや、道祖神なんだから、「道」の神であり、「導く」という性質があるのだ、というのは分かっていますが、道祖神というのは全国的に「男女の性」の神という性質があるのです。
●道祖神で有名なのが「サルタヒコ」と「アメノウズメ」です。

陰陽石
この幸神社の本殿の奥には「陰陽石(インヨウセキ)」というのがあります。拝殿の横から覗くと見えます。この陰陽石って一体何かというと、なんというか「やらしい形をした石」のことです。
現在では陰陽石は、ブロックに飲み込まれていて全体が見えませんが、おそらく「そういう形状(男性器と女性器のどちらか、もしくは両方)」です。

個人的な見解

個人の勝手な見解ですが
あくまで個人の見解です。
この辺りは「牛王」を祀っていたので「牛王町」と呼ばれていました。昔は疫病が怖かったからでしょう。これは別に宮島に限らず、どこの地域でもそうです。これは珍しいことじゃないです。
●牛王は牛頭天王のことで、牛頭天王はスサノオと習合していて、この疫病の神である牛頭天王・スサノオを祀った祭りが「祇園祭」です。

戦国時代までの幸神社
明治に埋め立てされるまで、幸神社の近くの町家通りが「海岸」でした。ここに船を停めて、神社に参拝する場所でした。では戦国時代以前はどうかというと、この幸神社はおそらくほとんど海でした。つまり「入江」だったのです。陰陽石は海岸にあった妙な石で、おそらく船乗りの「目印」だったのだと思われます。目立ちますからね。そういう印が「信仰対象」となるのは別段不思議じゃありません。
●道祖神として祀られるのは、男性器の形をしているのもあるんでしょうが、元々が目印だったから、じゃないかと思われます。

砂がたまり、陸地になって行くとこの場所は、厳島神社の領域の「東の端」となります。よってこの幸神社よりフェリー乗り場側が江戸時代以降に発展した場所です。
変化する環境
江戸時代に幕府は藩に「浪費をするなよ!倹約しろよ!」とお達しをしました。すると安芸藩は広島城下にあった風俗街をなんと宮島に移動させてしまったのです。これが1625年。
それで宮島は吉原がある歓楽街となりました(新町に移設)。現在の町家通りは、かつて吉原があった場所です。幸神社の説明書きに「このあたりは島内で屈指の賑わいだった」と書いてあるのはそういうことです。
その頃、この幸神社には「金鳥居」がありました。金属製の鳥居のことです。この鳥居より厳島神社側には遊女は入れないことになっていました。

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