二位の尼石灯篭

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二位の尼石灯篭

二位の尼石灯篭は宮島桟橋から厳島神社に行く途中にある灯篭。
まとめ
●二位の尼は平清盛の妻の「平時子」。
●壇ノ浦で安徳天皇とともに入水して死亡した。
●伝承によてば、宮島に遺体が流れ着いて、鎮魂のために石灯籠が建てられた。

もうちょっと詳しく

1185年3月24日(現在の暦で5月2日)に平家が壇ノ浦で敗れて滅亡。
その際に平清盛の妻である二位の尼(平時子)は、孫の安徳天皇(8歳)とともに海に飛び込み死んでしまいました。その遺体が宮島の「有の浦」に流れ着いたと言われています。その遺体を供養するために、神泉寺(別名が時寺…二位の尼の本名が平時子)は二位の尼の像を作って祀っていました。神泉寺は現在は無くなっています(寺の跡が光明院の裏にある)。二位の尼の像は光明院に移設されています。
●遺体が流れ着いたというのはあくまで伝承。平家ゆかりの人が宮島に遺体を持ち込んだという伝承もある。
神泉寺が時寺と言われたのは、毎日、時刻になると鐘を鳴らしていたから、と言われます。
●神泉寺は江戸時代に島内に井戸を掘ったり、宮島杓子をお土産として定着させた誓真が修行していた寺でもあります。
●二位の尼の遺体が宮島に流れ着いた、という伝承もあるが史実ではないでしょう。また平家ゆかりの人が遺体を宮島に持ってきた、という話もありますが眉唾。そもそも宮島には現在でも穢れを嫌うために「墓」というものが存在しない。
●墓や骨はなくても鎮魂はするのが日本人。宮島が平家とゆかりが深く、二位の尼を放置することが出来なかったということでしょう。もしかすると後ろ暗いことがあったのかもしれません。
●日本人にとって霊体は神と同義なので、鎮魂の寺には「神」という字がついたのではないか?


安徳天皇が崩御した翌年の1186年3月24日から先帝祭(センテイサイ)が行われるようになりました。

二位の尼の「二位」とは?

ところで「二位」ってのは何かというと、朝廷内の「位」の事です。朝廷ではランキングがあって、朝廷内にお勤めしている人で一番高い地位が「従一位(ジュイチイ)」なんですね。平清盛がこの従一位です。
細かく書くと、正一位→従一位→正二位→従二位という順番。正一位は「人」では受けることはなく、天皇や皇室専用の位で、従一位が実質一番上の位です。

で、二位の尼は「従二位」なので二位の尼と呼ばれるのですが、「従二位」というのは、女性に与えられた位の中ではズバ抜けたものです。後の時代では北条政子など、将軍の正室が受けていますが、二位の尼はその元祖。特に清盛の時代は「武士とは穢らわしいもの」で「平家は格下の家」というところから太政大臣で従一位まで登り、嫁の時子も従二位まで登ったわけで、後の北条政子はその先例に習ったくらいもの(と言っていいかな)。二位の尼の出世はスゴイのです。

二位の尼と鎮魂

で、何が言いたいのかというと…
菅原道真という「人」が引き起こした怨霊事件を考えると、やはりこれだけ隆盛を誇った二位の尼ですから、「壇ノ浦で死にました、はい、おしまい」とはいかないんですね。鎮魂しないとマズイ。鎮魂しないと祟りを起こす可能性が非常に高いのです。それで、神泉寺で像を作り、祀り、その一環で灯篭も作った。実はそれだけじゃないんです。かつて紅葉谷の禁足地(立ち入ってはいけない場所)があり、そこには今社(イマヤシロ)という神社がありました。今社には、清盛・二位の尼・安徳天皇が祀られていて、毎年、かなり盛大な鎮魂のイベントをしていました。ただし、今社は江戸時代初期にはなくなり、山王社(現在の三翁社)に併合され、イベントも無くなりました。

そのくらいしっかりと鎮魂をした。その名残が灯篭です。

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