厳島神社に宗像三女神が祀られたのはいつか?

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厳島神社に宗像三女神が祀られたのはいつか?

厳島神社に宗像三女神が祀られたのは戦国時代
まとめ
●平安時代まではおそらく伊都岐島大明神が祀られていたと思われる。
●歴史書(日本書紀・古事記)に登場しない伊都岐島大明神は正体不明でよくわからない神様となり、厳島神社客神社に祭られていた宗像三女神の「市杵島姫」と名前がよく似ているので「同一神」とされ、この時、市杵島姫と入れ替わった。

伊都岐島大明神

厳島神社にはそもそもは伊都岐島大明神という神様が祀ってありました。おそらく平清盛の時代も伊都岐島大明神が祀ってあったはずです。後世になると古文書の研究が進み、古事記や日本書記に描かれている神が「正統」と考えるようになりました。で、伊都岐島大明神は全然、古事記や日本書記に書かれていないんです。平安時代に編纂された延喜式といった本には伊都岐島大明神という名前は書かれているんですが、延喜式は「名前や格式」がズラズラと書かれているだけで、どういう活躍をした神様なのか?といったことは書かれていません。

伊都岐島大明神は正体不明の神となる

それで伊都岐島大明神は「正体不明の神様」となりました。
戦国時代になり、棚守房顕が活躍する時代になると、棚守は毛利氏に頼んで、京都の神道の研究家である吉田兼右を厳島神社に招きます。依頼料のお金は毛利が払いました。吉田兼右は厳島神社の神事を、整え、そのついでに厳島神社の祭神を正体不明の神ではなく、宗像三女神の1柱の「市杵島姫神(イチキシマヒメカミ)」のことだとしました。理由は「伊都岐島大明神」と「市杵島姫」は音が似ているから。
●その時に厳島神社の客神社に祀られていた神様の中に「宗像の神」がいましたし、平安時代から宮島島内には宗像の神が祀られていました(厳島神社内ではないが)。それも無関係ではないですが。

そもそもどうして市杵島姫に鞍替えしたのかというと、「その方が神社が繁盛しそうだから」です。正体不明の神よりは、古事記や日本書紀で知られた神の方がいい。天皇とゆかりのある神の方が参拝客が増えて儲かりそうだからです。
ひっくり返すと、古事記や日本書紀の知識を持った人が多かったということになります。

客神社の神も芋づる式に変更

ちなみに宗像の女神はアマテラスとスサノオの誓約で生まれた神なんですね。アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神は宗像三女神以外にもいて、その神様が「現在の客神社」に祀られている神様です。調べてみると客神社に祀ってあった神様は、現在の神様とは全く違います。

となると、現在の客神社の神様は、「厳島神社の主祭神が宗像三女神になった後、宗像三女神が誓約で生まれた神だから、誓約つながりで客神社の神様が変更された」ということです。こうなると、平清盛の時代の厳島神社と、現在の厳島神社というのは、「ほぼ別の神社」と考えても差し支えないんじゃないかと。
ただ神様を変更するなんてのは全然珍しくもないことです。

大問題が発生

別のところに問題が。
管弦祭は平安時代の京の風習を模した儀式とされ、この儀式はそもそも「宗像の神の祭」を基にしたもの、とされています。それが宗像三女神が祀られたのが戦国時代となると、平安時代に管弦祭が始まる訳もありません。

戦国時代に宗像三女神を祀ってから、「宗像の神の祭」を始めるのは問題ないんです。そこはまぁ構わない。お祭りはみんな、大好きですからね。神社とお祭りはセットです。祭の理由なんて何だっていいんです。それが宗像の神を祀るようになったから、室町時代に「宗像の祭にちなんで始めた」のは普通のことです。

問題は、公家貴族がすっかり衰退した時代(鎌倉・室町以降)に、なぜ公家貴族の風習を取り込んだ儀式(管弦祭)を始めたのか?ということです。

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