宮島の大鳥居の柱は江戸時代まで樹皮がついたままだった

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宮島の大鳥居の柱は江戸時代まで樹皮がついたままだった

まとめ
●明治8年に厳島神社大鳥居は建て直された。
●その時は神仏分離の影響で「赤は仏教的」とされていて、赤く塗られず、白い鳥居が建てられた。
●江戸時代までは柱は樹皮のついたままの柱だった。
●赤く塗られているのは丹を塗ることで腐食を防ぐ意味もあった。

厳島図会にある江戸時代の大鳥居

江戸時代の末期に成立した芸州厳島図会には大鳥居のイラストがあります。当時はカラーじゃないんですが、イラストのタッチから考えると、上へと伸びる柱は全て「樹皮がついたもの」でした。

江戸時代から人々が引き潮の時には大鳥居の根元まで歩いて行って観光をしています。柱の周囲を両手を広げて囲んで「こんなに大きいんだ」ってやってるのもありますし、柱に落書きしている町人も見えます。貝堀(潮干狩り)をしています。また武士も観光しているのが分かります。あと、鹿が多いですね。現在よりもかなり多い。
参考昔からいたずら人は居たんですよね。現在でも同じです。
厳島神社の大鳥居に硬貨(コイン)をねじ込まないで

江戸時代と明治の大鳥居の経緯

6本足の現在のような大鳥居が立ったのは戦国時代の大内義隆の時代です。彼がなぜか突然、大鳥居を現在のような巨大なものに立て替えた。そのデザインを毛利が踏襲し、江戸時代に入っても踏襲します。それが厳島図会にあるものです。

明治に入ると、仏教排斥(廃仏毀釈)の動きが高まります。これは天皇を中心とした社会を目指した以上、当然のことなんですが、どうも広島では…特に宮島ではかなり苛烈だったようで、「赤い」というだけで仏教的とされ、厳島神社も大鳥居も仏教的であるとされて否定されました。そのために、厳島神社も明治の一時期、赤くなかったのですね。

宮島の大鳥居は定期的に建て替えられるものです。海に浸かっているので腐食するので。しかし明治に入ると腐食を防ぐ技術も進んだんじゃないかと。それで全体を赤くすることになっていた、のではないかなと思います。ところが「仏教的」としてストップ。
●ちなみに船の船底が赤いのは亜酸化銅を含んだペンキを塗るため。ただし亜酸化銅を塗るのはフジツボを付着させないためで、鳥居が赤いのとは関係ないです。

赤く塗る…丹塗りにするのは腐食を防ぐ効果があります。赤く塗っていない柱は海水の影響をもろに受けて劣化した。そのうち、廃仏毀釈の動きが弱まり、明治10年までには信教の自由を理由に廃仏毀釈は終わります。しかし、明治8年に建てられた鳥居はすでに「白」いまま。
これが赤くなるのは明治44年2月でした。長いな。大鳥居を修繕するのはそれだけ大変だったことですね。

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